【母の教え】大宅壮一文庫理事長・大宅映子「父(大宅壮一)を捕まえに特高が家にやってきたときでも、母はきちんとお茶を出す。これが母でした」

「一億総白痴化」「口コミ」「恐妻家」などの言葉を社会の動きを睨みながら創り出した評論家・大宅壮一(1900~1970)。日本が敗戦から復興期を経て個人生活が大きく変わろうとしているときに、時代の本質をズバリ突く言葉で多くの人々を魅了した。その三女の大宅映子さんは一人一人の生き方、働き方について語り、さらには国内の政治から国際問題まで幅広い領域でコメントを出し、啓蒙啓発活動をしてきた。その大宅さんが、父・大宅壮一を支え続けた母・昌さんのことを語る。

 母と父の出会い

 父・大宅壮一が家庭では頭があがらない、と思っている方がいらっしゃるようですが、そんなことはありません。たしかに家庭の切り盛りは母がきっちりしていましたが、父を押さえつけたりはしません。家庭の取り仕切りは百点満点でしっかり父を支える明治の女でした。

 父との結婚はあちこちマスコミでも取り上げられましたが、父が『婦人公論』の文化講演会で富山に出かけた際、聴衆の一人だった母に一目惚れ。壇上からつり上げたというユニークなもの。

 後に、どうやって声をかけたの?と父に聞きましたら、母は顔に吹出物が出来て、白いバンソーコーを貼っていたと。そこで、講演終了後に働く女性と座談会をやるので、あのバンソーコーを呼んでくれと、主催者の人に頼んだのだそうです。

 母は男女合わせて8人きょうだいで、末娘。別に男性を避けるわけではなかったけれど、何なのだろうと不思議に思いつつ、座談会へ。

 座談会終了後、大宅先生は母の家へ。校長先生である父親、医者である兄上、学校の先生であるお姉さんたちと大いに盛り上がり、少なくとも家としてはOKのムードだったらしい。

 しかし母は、ブルドッグみたいでイヤ、と言ったらしい。でも父は、富山で一番の文化人に仲人を頼むなど、当時のやり方にちゃんと則ってねり上げられてしまったらしいです。

 わたしが高校生の時、社会科で、親がどういう経緯で結婚したのかインタビューしてくるように、という宿題が出ました。そこで母に「一匹つりあげた」なんて、ムカつかなかったの?と聞きました。

 母は、そりゃムカついたけど、周囲から固められちゃったからねぇー。それに、6年も勤めた学校の先生ももういいかな、と思っていた所だったから…と口を濁しました。

 わたしがもっと追及すると、実は同業で好きな人がいたのよ、ですって。でも、その人と結婚できる可能性もないので、「あきらめた」のもあったわね、と懐かしんでいました。そして、でもね、その人若死にしちゃったのよ、というので、じゃよかったネと返したら、すごい返事が返ってきました。

「イイエ!私が結婚していたら彼をそんな早死にさせなかったわ!!」わが母ながらすごい。

 富山県の厳格な家庭に育って…

 母の父親は中学校の校長、兄たちは医者又は教育家、娘たちにも全員教員免状を取らせる、という徹底した厳格な家でした。

「恐妻家」という言葉は父がつくった言葉で、男性中心の社会の中で、実権を握っていたのは奥さんということをユーモラスにそう表現したわけです。父は世間で恐妻家のイメージが強かったので、父が出張で地方の旅館に行くと、女中さんが気遣って自然と親切にしてくれたようですよ(笑)。

 母は厳しさだけではなく、当然優しさも持ち合わせた人でした。世俗的な話題であっても上手に捌ける柔軟性があり、いわゆる堅物教師という雰囲気はなく親しみやすかったと思います。

 わたしが生まれる前ですが、当時軍部の力が強まり、活動家が治安維持法で取り締まられていた頃に、ある日父を捕まえに特高(特別高等警察)が家に来たそうです。そのときに母は、三つ指ついて「いらっしゃいませ」と迎えて、兄を抱っこしながらお茶を出しました。

 特高の人も、「(捕まえに行って)お茶とお菓子を出されたのは初めてだ」と言って、「あそこの奥さんは別格だ」と警察の中で話題になったようです。どんな人であっても、そういう振る舞いをするように育てられていたということです。

 明治三十三年生まれでしたが、身長160㌢㍍でスタイルがよかったですから、洋服もよく似合う体型でした。

 それでいて性格はカッコつけずにはっきりものを言う人でしたから、なんやかんや組織のボスになることが多く、小学校のPTAの役員も務めていました。わたしも身長が170㌢㍍ありましたから、立っているだけでも目立ってしまう。だから幼稚園の頃から親子で自然と目立っていましたね(笑)。

 大宅歩―母の大事な一人息子のこと

 わが家は兄、姉二人、私、という子供構成です。

 兄は昭和7年生まれ、赤ん坊の頃から愛らしく、頭脳明晰、2歳で文字を書き、小学4年生の時は5、6年生を差し置いて運動会では行進の先頭を歩く、という自慢の息子。兄のあとは娘が続き、もう一人男子が欲しいといって生まれたのが私でした。

 兄は、英語を中学でマスターし、独語、仏語を独学。二階からトントントンと走り降りながらドイツ語を喋っていたのを覚えています。

 中学でラグビーにとりつかれました。その魅力にはまったのでしょうが、ケガもよくしていて、それが原因で時々発作が起きるようになっていました。

 今なら交通事故も多く脳外科が発達していますが、その頃は薬で押さえるだけ。いつどこで発作が起きるかわからないので 行動範囲はすっかり狭くなって夢もなくなってしまいました。

 妹たちが山登りだのスキーだのに出かけるにも、兄に見られないように朝早く出かけ、夜中にそっと帰る。お酒大好きだったのに飲むと発作が出るので、 飲ませられない。TVでお酒やビールのCMが流れると、兄以外は頭を下げてじっとしている、そんな状態でした。

 母は、何かいい方法があるはずだと、万病が治ると聞けば、どんな遠くへでも出かけて祈りまくっていました。でも、たった三十三歳で亡くなってしまいました。

 十六歳から死と向き合ってかろうじて生きていた兄は遺書に、本の一冊や二冊出版するだけの文は書いてある。しかし恥ずかしい形で出してはくれるな、と。出版された本は、嬉しいことに沢山の若い方に読まれて、教材にも取り上げられています。

 兄が亡くなったのが早朝の4時半、気がつくと電話器の前に座って、知り合いに片っ端から電話をかけている父がいました。あの姿は忘れられません。

 友達が多かった兄でしたが、兄が食べ盛りの頃は戦争直後で食べるものはなし。「大宅のところへ行けば何か食える」といつでも2、3人が泊まっていました。

 父が中二階に卓球テーブルを作って、友達が来ると皆でそこで遊んでいましたね。その友達たちは寝泊まりを続けて、朝ぞろぞろと起きてくるのです。居座り続ける友達たちに食事を出す方も出す方だと思いますが(笑)。

 そういうところからも母の人柄はわかると思いますが、人の面倒を見るということが好きだったのだと思います。

 わたしが生まれてすぐ、第二次世界大戦中でしたが、父・大宅壮一は従軍記者としてインドネシアに渡っていました。船が攻撃され沈没しましたが、運動音痴の父が泳いで生き延びられたのは、オリンピックの水泳選手を出した母校、茨城中学のおかげだと思います。

 母によれば、父が運よく戦争から帰って来た時に、1歳半くらいのわたしが「このおじちゃま、だあれ」と言ったそうです。その後、大宅家は自給自足するために八幡山に引っ越して、土地を買って家族でお米やお芋を育て、幼かったわたしもよく手伝いました。

 戦争が終わり、このままずっと米や野菜を作ると父が言ったときに、母は「冗談じゃない。わたしは農家の嫁に来たんじゃない。あなたは世の中に対してまだやらなきゃいけないことがたくさんあるはず」と言ったそうです。このときの母の言葉がなければ、今頃大宅家は違う方向に行っていたと思います。

 母はわたしの恋愛もうまくいくようサポートしてくれていました。夫との出会いのきっかけは、1枚の名刺がきっかけでした。

 夫は名刺を出し、「これ(枝廣宇人)、読めますか」とわたしに言うのです。読めますかと言うのだから、普通の読み方ではないなと。それで、〝八紘一宇〟の家の宇だと思いついて「いえひと」と読んだら、「ぼくの名前を読めた人は初めてだ」と。

 そうしてお付き合いが始まり、夫は中古車のヒルマンミンクスを買って毎朝、洗足池から八幡山の家まで迎えにきてくれました。そのとき母が朝ご飯のお弁当を2人分持たせてくれていたのです。外苑前の銀杏並木の横に車を止めて、2人でそれを食べてから会社に行くというのが私たちのデートでした。

 毎朝作るのは大変だったと思いますが、いつも相手への愛を行動で示していた母。その思想はわたしたち子どもの心にしっかりと刻まれ、財産となっています。