原鉄道模型博物館館長・原 丈人「子どもへのサイエンス・テクノロジー教育、日本と世界との結節点としての博物館として」

母と一緒に、博物館の設立を説得して…

 私の父・原信太郎は、祖父が創業したコクヨの技術革新を40年間にわたって率い世界初の立体自動倉庫や、紙製品の全自動装置を発明し、高収益会社へと導きました。父は社員を大切にする偉大な経営者でした。同時に、世界的鉄道模型製作、収集家として世界で知られています。原鉄道模型博物館は父が製作した鉄道模型や資料を通して受け継いだ事業精神と、家族の物語を後世に伝えるために2012年に私が創設しました。

 父には、博物館をつくる意図はなく、本物に忠実な鉄道模型作りを極めたいと考えていました。そのために自分の技術、体力、時間、資金から考えて最高の出来の模型をつくることに情熱を傾けていました、95歳で亡くなるまでに、80年間かけて1000輛の模型を製作しました。

 米スミソニアン博物館から博物館設立の提案を受けても首を縦に振らなかったのです。

 しかし、父が80歳を超え、長男である私に託すようになった頃、改めて父の鉄道模型は「世界の宝だ」という思いを父に話し、母と一緒に父を説得しました。

 最後は父は設立に同意するわけですが、条件を付けました。それは最初に鉄道が開通した新橋―横浜間に作ることです。

 そこで、三菱地所や東日本旅客鉄道の経営陣を訪ねて新生東京駅構内に誕生する計画が出来上がりました。が、紆余曲折があり、大宮にできる鉄道博物館に隣接して設立してもらえないかという提案になったので、受け入れることができませんでした。そこで、日本で2番目に開通した大阪―神戸間の様々な場所で可能性を探りましたが、なかなか条件が合わず、場所選びは難航を極めました。

 そんな時、私が2003年に読売新聞に寄稿した「会社は株主のものではない。」と断言した論考を読まれた三井不動産の北原義一さん(現東京ドーム会長CEO)とご縁ができ、横浜での設立に向けて歩み始めました。三井不動産は、行政サイドから、「文化的施設と国際的施設を入居させること」が横浜三井ビルディング開発の条件だったのです。そこで、原鉄道模型博物館の設立と、国連の経済社会理事会の特別協議資格を持つアライアンス・フォーラム財団に入ってもらえるように私が関係者に根回ししました。2つの条件を満たしたことで横浜三井ビルが建設できることになりました。

 その後、ドイツ、フランス、スイス、オランダ、イギリス、米国の歴史ある鉄道博物館へ三井不動産の精鋭部隊と父や私が調査に行き、長い歳月をかけて2012年に完成しました。

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鉄道模型に「哲学」がある

 父の模型には「動かなければ模型ではない」という哲学があります。大事なことは実際に動くことです。車輪、モーター、歯車、駆動装置、揺れ枕など全てが本物と同様に搭載された精密機械で、レールの素材にも鉄を使うなど(普通は真鍮を使います)こだわっています。電気機関車や電車の模型は架線から集電します。さらに、美しさを追求するため、単に本物を縮尺するのではなく、模型としてのデザインに昇華させています。

 一般的に鉄道模型は子どものものだと思われがちですが、この博物館の「小さな本物」に触れると大人も夢中になります。

 子供たちの多くは、原模型から触発されて自分で作ってみたくなるようです。科学技術は座学よりも、自らが製作する過程で学ぶ方が体にしみこみます。私自身も父の影響で機械工学や電気工学を学びました。将来、原鉄道模型博物館に来た常連の子ども達の中から科学者・技術者が出てくるのは確実です。

 もう1つ、この博物館は、日本と世界の結節点となっています。私自身が世界で活動しているため、海外から首相や閣僚、経済人などが訪問してくれます。

 また、24年に香港で「原鉄道香港駅」を、横浜の原鉄道模型博物館開設12周年記念行事として期間限定で開設しました。父が製作した鉄道模型2輛を原寸大で復元し、車窓から流れる景色を見ながら食堂車として日本食を楽しめます。一輛は、父の生年と同じ大正8年に完成した「箱根登山鉄道」の電車、もう一輛は母が生まれた大阪に開業した「阪神電気鉄道」の青く美しい電車です。今、元気で働けることを両親に感謝し敬意を表するために製作しました。

 私は企業を社会の公器と捉え、株主の利益だけでなく、社員や顧客、地域社会などへの貢献を重視する「公益資本主義」を提唱していますが、これも父や祖父の精神から生まれたものです。この博物館は、その意味でも重要な場所と位置づけています。