
国のカタチをどう構築?
『国のカタチ』、つまり日本国の有り様、骨格をどう構築するかという命題。
国の三権、すなわち立法(政治)、行政(役所)、司法(裁判所、検察)のうち、とりわけ政治と行政の機能低下が危ぶまれている。
特に、政治分野は今、世界規模で揺さぶられている。第2次トランプ政権の誕生から2ヶ月余、関税政策がどう実行されるかで、既存の産業秩序、サプライチェーンが崩壊しかねず、当該産業の収益構造のみならず、その国の雇用体系にまで影響が及ぶことになる。
報道によれば、韓国の現代自動車グループは、自国からの対米輸出では自動車に高関税をかけられるとして、米国内に自動車工場をつくり、さらに生産に必要なエネルギーを確保するために、発電所まで建設する計画だという。
トランプ政権は米国への投資が増えるというので大歓迎する。
日本の自動車業界も、トランプ政権の高関税策によって〝大損害〟を出すのは必至。こういう混沌期に政治の役割は実に重い。
経済人の使命
トランプ政権が次にどんな手を打ち出すのかを、世界中が息をひそめて見守る。経済人はどう動くべきなのか?
中には、トランプ政権にスリ寄り、一大投資計画で政権の気を引き付ける動きもあれば、「新政権の動き方をじっと見守る」という受け身の所もある。大半は後者だ。
企業や経営者それぞれの判断や対応ということになるが、「経済リーダーはもっと、世界経済のあるべき姿について情報発信するべき」と叱咤激励する声もある。
米国と日本の力関係や安全保障問題も関係してくるだけに、そう簡単にはいかない事柄だが、『政治』、『行政』のあり方と共に、『経済』の使命と役割は何かについて、考えさせられるこの頃である。
官僚志望者が激減
中央官庁の官僚になる人が激減─。ここ数年、この傾向が強まり、官僚の給与(賃金)をもっと上げるべきという案が霞が関関係者の間で挙がっている。
このところ、役人忌避の傾向が学生の間で強まる理由は、給料が民間の優良企業と比べて低い、就業時間が長いといった所にある。
役所の中枢、企画立案部門で働く優秀な官僚ほど、国会答弁などの資料づくりに追われ、政治家に振り回される。その作業は深夜にまで及び、家庭生活にも支障をきたすのが現実。
そうした若くて優秀な官僚も、夫人に愛想をつかされ、「わたしを選ぶか、役所を選ぶか、早く決めて」と言われ役所を退職したという話を、当事者から筆者も聞かされたことがある。
その人は後に起業家となり成功したのだが、問題は〝低賃金〟、〝深夜労働〟という環境で、働き甲斐・やり甲斐を若い官僚が無くしている現実である。待遇改善は、そうした流れを変えるのに役立つ面はあるだろうが、果たして、役所忌避の傾向はそれだけが理由で生まれているのだろうか。
次官経験者の述懐
「僕らの頃は、金融機関に就職した仲間の給料の半分位でしたが、それでも仕事にやり甲斐を感じていたので入省しました」とは、某有力官庁の事務次官経験者の弁。
高度成長真っ只中の1970年代前半に入省した当人は、「やり甲斐も働き甲斐もはっきり言って、ありました」と語る。
永田町(政治)と霞が関(行政)が一体となって、長らく〝国のカタチ〟を形成してきたわけだが、戦後しばらくは、政策立案は表立っては政治家の仕事とされ、その舞台裏を官僚が支えてきた。
国の財政を動かす旧大蔵省(現財務省)の幹部を務めた人が語ってくれたことがある。
大蔵大臣が一応無難に国会質疑をくぐり抜け、大臣室に戻ってきたところを、『大臣、先ほどの答弁は成ってませんでしたよ』と〝諫めた〟というのである。
大臣も、「スマン、スマン。今度はもっとうまくやるから、知恵を貸してくれよ」と応じたという。
こうやって政治と行政の関係がうまく行っているうちは良かったが、1980年代からの中曽根行革が始まると、状況が変わる。
首相と財界総理の連携で
中曽根康弘氏(1918―2019)は1982年(昭和57年)11月から87年(昭和62年)11月までの5年間、首相を務めた。その前に行政管理庁長官を務め、行政改革に尽力。首相になるや、「戦後政治の総決算」を掲げ、3公社(国鉄、電電公社、専売公社)の民営化を推進。3公社はJR、NTT、JTに名を変え、民間企業として成長・発展してきた。
この3公社民営化を第二次臨調(臨時行政調査会)の会長として共に推進したのが土光敏夫氏(1896―1988、元経団連会長、元東芝会長)である。
当時、戦後約40年が経ち、財政の肥大化が進み、借金(国債)も膨れ上がり、財政規律を取り戻そうという動きが、世の中にあった。何でも国(公)がやるのではなく、「民間の知恵、活力を取り入れよう」という中曽根行革であり、また、そこに経済リーダーが存在感を発揮し、力を振るった。
〝メザシの土光さん〟と呼ばれ、質素倹約を旨にした経済リーダーは、日蓮宗の敬虔な信仰者でもあり、経営再建の達人でもあった。
時代の転換期における経済人が、新しい『国のカタチ』を創り出す時に、重要な役割を果たしたということ。
経済リーダーの使命と役割は、何も組織のトップに立って人を引っ張っていくということだけではない。
久水宏之さんの覚悟
あえて、縁の下で社会に貢献する人たちもおられる。今年1月に亡くなった元日本興業銀行常務で経済評論家の久水宏之さんもそのお一人であった。
久水さんは1931年(昭和6年)生まれ。享年93。旧興銀(現みずほフィナンシャルグループ)では、若い頃から頭取候補に挙げられていた一人であったが、1983年(昭和58年)、30年間務めた興銀を退職された。なぜ、退職の道を選択したのか?
久水さんは後に、「自分は野心家であった」とし、「人より高い地位に這い上がることに懸命で、周りを見ようとしない自分の生き方が見えた」と語っておられた。
職場で感じた心の不自由さから抜け出し、もっと伸び伸びとした新しい生き方を見出すための退職だったということ。
久水さんは、人生の師として、高橋佳子さんに師事。その高橋氏から『常に名も無き一人から 名も無き全体へ』と『永遠に名も無き一人から 名も無き全体へ』の言葉を貰い、新しい生き方を模索。
その後の久水さんは、『常に名も無き一人』として、「少しでも世の中のお役に立ちたい」という思いを持って経済評論家として活躍された。改めてご冥福をお祈りしたい。 合掌。