マイクロソフトの基礎研究および応用研究部門であるマイクロソフトリサーチは、世界8カ所に研究所が設置されている。そのなかで、世界3番目の拠点として、1998年に中国・北京に開設したマイクロソフトリサーチアジア(MSRA)は、今年で25周年の節目を迎えた。MSRAのリドン・チョウ(Lidong Zhou、周礼栋)所長に、これまでの25年間を振り返ってもらうとともに、今後のMSRAの取り組みについて聞いた。

新たなコンピューティングパラダイムの瞬間の最前線に

--マイクロソフトリサーチアジア(MSRA)が、今年で25周年の節目を迎えました。MSRAはどんな役割を果たしてきましたか?

チョウ氏(以下、敬称略):MSRAは、1998年に中国・北京に研究施設を開設したのに加えて、2018年には上海にも拠点を開設し、コンピュータサイエンスやAI、マルチメディア、コンピュータグラフィックス、コンピュータビジョンといった領域での研究に取り組んできました。

  • マイクロソフトリサーチアジア(MSRA) 所長のリドン・チョウ(Lidong Zhou、周礼栋)氏

    マイクロソフトリサーチアジア(MSRA) 所長のリドン・チョウ(Lidong Zhou、周礼栋)氏

しかし、現在はそれらの境界を超えた研究活動が増えています。大学や研究機関、企業との協業が増え、学際的研究(Cross-Disciplinary Research)が重要になってきています。また、生成AIに代表されるように、新たなコンピューティングパラダイムが生まれており、社会に対するテクノロジーの影響がより大きくなっています。

  • MSRAの研究領域

    MSRAの研究領域

コンピューティングパラダイムは、30年や50年という周期で生まれています。前回のパラダイムは、1973年に初めてのGUI(Graphical User Interface)を活用したパーソナルコンピュータ「Alto」が、Xerox PARC(Palo Alto Research Center)で誕生したときです。このときに生まれたGUIというパラダイムは、いまも存在し、最新のスマホにも採用されています。

  • コンピューティングパラダイムの流れ

    コンピューティングパラダイムの流れ

これからの世界を考えると、コンピューティングの新しいパラダイムが定義されるタイミングが訪れており、今後30年、50年の基盤となるものを生み出すことができる絶好の機会が訪れていると思っています。

これは、いまを生きる私たちにとって、一生涯に一度のチャンスになるかもしれません。かつてのXerox PARCからさまざまな研究成果が生まれたように、MSRにとっていまこそが大きなチャンスです。このタイミングにおいて、MSRAは新たなコンピューティングパラダイムの瞬間の最前線にいたいと考えています。

私はMSRAをXerox PARCのような存在にしたいと真剣に思っています。Xerox PARCで働いていた経験を持つ同僚と一緒に仕事をしたこともありましたが、変化の潮流を捉えることがうまく、将来を見据えた発想をし、ビジョナリーといえる人たちばかりでした。MSRAの研究者も、そうした姿勢を持たなくてはならないですし、学際的研究が重要になるなかで、研究方法も変えていかなくてはならないといえます。

いまの時代は、学際的研究がますます重視され、境界を越えたブレイクスルー技術が社会に大きなインパクトをもたらすことになります。そこにMSRAがどう貢献していくのか、なにを実現するのかを明確にしていきます。

大規模言語モデルを独自開発する狙い

--新たなコンピューティングパラダイムを定義する上で、生成AIの登場はどんな影響を及ぼしますか?

チョウ:MSRAが長年に渡って取り組んできた研究開発テーマの1つにナチュラルユーザーインタフェースがありますが、これは生成AIの登場によって、完全にディスラプト(破壊)されました。研究者は、ChatGPTがリリースされて以降、私たちの研究がどんな意味を持つのか、研究の仕方がどんな影響を与えるのかということを、より深く考えるようになりました。

突然の変革を経験したことで、新鮮な視点で、チャンスを見出したいとう考え方に変化してきています。例えば、自然言語処処理や言語検索の専門家は、その分野の研究だけをやっていればいいというわけではないことを多くの研究者が気づいています。これも、学際的研究が推進される要因の1つになるといえます。

MSRAの新たな取り組みのひとつにEmotional Immersiveness(感情的没入感)があります。CGでは3Dモデルや3Dレンダリングにより、人の表情を再現しますが、生成AIでは、Emotional Immersivenessによって、AIがテキストの内容を判断して、言葉を発しなくても表情で感情を示して見せたり、共感していることを示したりできます。

これを実現するには、学際的な研究が必要になります。コンピュータサイエンスの研究だけでなく、感情を理解する研究が必要であり、心理学の研究も必要です。また、この研究成果を悪用されないために、社会的責任を伴った活動も必要になり、そのための研究も不可避です。

  • テキストから表情を変化させるEmotional Immersiveness(感情的没入感)の事例

    テキストから表情を変化させるEmotional Immersiveness(感情的没入感)の事例

CGの世界であれば、コンピュータサイエンスだけで実現しましたが、生成AIがさまざまなところに影響するこれからの技術革新は、あらゆる領域の研究者が一緒になり、協力しあわなくては実現しません。

--マイクロソフトでは、Open AIとの連携を通じてGPT-4などを用いた大規模言語モデル(LLM)を中心に生成AIに取り組んでいます。しかし、MSRでは13億パラメーターという軽量LLMの「phi-1」および「phi-1.5」を独自に開発していますね。この狙いはなんですか?

チョウ:マイクロソフトは、生成AIを「Copilot(副操縦士)」と位置づけ、社会や企業、個人をエンパワーすることに取り組んでいます。MSRおよびMSRAでは、Copilotとして提供するためのさまざまなケイパビリティの開発に取り組むとともに、戦略的プロダクトパートナーシップを通じて、将来のCopilotを作るといった作業も行っています。

このように、生成AIを活用したプロダクトのインキュベーションに貢献しているのがMSRおよびMSRAの役割であり、その結果、マイクロソフトの開発者が市場競争力を持ったAIネイティブプロダクトを開発することができます。

これは、既存の製品を強化するのではなく、会社にとって新たなチャンスを作る部分に貢献するものであり、MSRAが行っているニューロサイエンスを活用したAIへの取り組みも、今後、その成果が新たなビジネスチャンスを生み出すことになると思っています。

一方で、軽量LLMの「phi-1」および「phi-1.5」は、MSRレドモンドで開発を進めています。MSRAは直接関与しているわけではありません。しかし、LLMをさらに拡張するには制限がありますから、極めて重要な取り組みの1つに位置づけています。

MSRには言語モデルの研究者だけでなく、システムの観点からイノベーションを起こすことができる研究者が在籍しており、これらの研究者が協力することで、スケーリングだけでなく、常識推測という方法を採用して効率を高め、低コストで学習させるといった研究が可能です。

  • 軽量LLMの「phi-1」および「phi-1.5」の概要

    軽量LLMの「phi-1」および「phi-1.5」の概要

LLMをさまざまな角度から研究できることが、MSRのメリットであり、それらのアプローチの中から、イノベーションを生み出し、業界を変革することにつながることを目指しています。

東大との共同研究から見えてきたこと

--個人的には15周年を迎えた2013年に、北京のMSRAを訪れて取材をした経験があります。テーマの選定は研究者に委ねられるなど、MSRAの自由な雰囲気に驚きました。それからの10年は、ちょうどサティア・ナデラ氏がCEOに就いた10年でもあります。エンジニア出身のナデラCEOによって、MSRAはどう変化しましたか?

チョウ:ブレイクスルーやイノベーションに対する姿勢がより強くなり、MSRが果たす役割の重要性がさらに強く理解されたといえます。また、D&I(ダイバーシティ&インクルージョン)をはじめとして、文化の醸成にも目を向けていること、社会的責任についても強い姿勢を見せていることが、この10年間の変化だといえます。

研究者はサティアが示した方向性に触発され、サティアの言葉がMSRAの研究者にパワーと勇気を与えてくれています。そして、そうしたマインドを背景に、私たち自身が変わろうという意識がより強くなっています。MSRは、新しい方法やテクノロジーに挑戦することを許されている組織でもあり、その環境がずっと維持されています。

--現在のMSRAの体制を教えてください。

チョウ:MSRAの北京の研究所には、200人以上の研究者が在籍しており、上海の拠点には約30人の研究者が在籍しています。中国人だけでなく、韓国や米国の研究者もいるのですが、現時点では研究グループの中に日本人は在籍していません。アウトリーチ部門においては、日本に常駐する形で日本人が1人、MSRAに在籍しています。

過去には、日本人研究者がMSRAに在籍し、すばらしい研究成果をあげてくれました。私は、日本の研究者に再び在籍してもらいたいと思っていますし、日本の大学や企業との連携を強化したいと思っています。次の取材の際には、MSRAに在籍する日本人研究者を紹介できるといいですね(笑)

--東京大学とは共同研究について連携を発表していますし、2023年11月には共同で「AI Forum 2023」を、東京・本郷の東京大学安田講堂で開催しました。東京大学との連携強化が目立ちます。

チョウ:東京大学は、3年後には150周年を迎える歴史を持つ著名な大学であり、MSRAの25年の歴史では足元にもおよびませんが、MSRAは早い段階から東京大学とパートナーシップを組み、さまざまな分野で共同研究を進めてきた経緯があります。

MSRAと日本の大学・学術界とのパートナーリングは、過去20年間で200以上の研究テーマにのぼりますが、そのうちの約40%が東京大学との共同研究となっています。また、100人以上の学生や研究者をインターンシップとして迎え入れていますが、うち50%以上が東京大学の人たちです。Ph.D.フェローシッププログラムを最初に受講したのも東京大学の学生でした。

2022年11月には東京大学の藤井輝夫総長と、米マイクロソフトのCEOであるサティア・ナデラが面談し、D&IやGX(グリーントランスフォーメーション)、AIなどの推進について意見交換を行いました。

また、2023年8月には、これらの取り組みに関する連携で基本合意書を締結し、研究を通じて、社会への貢献を果たすとともに、学生の育成にも共同で取り組み、女子学生にもコンピュータサイエンスに興味を持ってもらう活動も新たに開始しています。

私自身、来日する機会を増やしたいと思っています。Ph.D.フェローシッププログラムやインターンシップの卒業生たちと改めてネットワークを構築したり、若い研究者たちに北京に来てもらったりといったことにつなげたいと思っています。日本の学術界との連携をより強化したいと考えており、そのためには対面の機会を増やすことが必要です。

  • 東京大学と共同で開催した「AI Forum 2023」の様子

    東京大学と共同で開催した「AI Forum 2023」の様子

さらに、日本の企業との関係強化にも取り組みます。ここでは、IT業界だけでなく、エネルギー業界、医療業界などとの連携によって、世界全体が抱える課題の解決に対して、ともに貢献できると考えています。マイクロソフトが持つコンピューティングをはじめとした専門知識と、日本の企業が持つ業界知識を組み合わせることで、業界ごとの将来像を描き、同時に課題解決を図ることができます。

日本マイクロソフトを通じた各業界のリーダー企業との連携も増えており、これからは異なる業界の研究開発部門との連携にも期待しています。今回の来日で、日本の学術分野の関係者、企業の方々などと対話の時間を持ちましたが、大変有意義な時間でした。つながりを深いものにするだけでなく、横への広がりでも成果がありました。

MSRAが10年後に目指す姿とは

--MSRAは、次の10年でどんな研究所を目指しますか?

チョウ:私は若い研究者にチャンスを与え、アイデアを共有し、それを循環させ、よりよいアイデアを生み出して、研究成果に反映させたいと思っています。ベストなアイデアは、多様性の中から生まれます。

MSRAでは、さまざまなバックグランドを持つ、さまざまな専門領域の人たちが集まってアイデアを出し、ともに考えることができる環境を構築しています。これによって、新たなコンピューティングパラダイムを定義することができます。

イノベーションを起こし、長年続くような大きなインパクトを生み出し、テクノロジーを多くの人に使ってもらい、それが不変なものとなり、知らないうちに自然に使われているというようなものを生み出すことができる研究所になりたいですね。

Xerox PARCからはGUIとともにマウスやプリンタなど、いまでも不変となっている技術が誕生しました。これから20年、30年経ったときに「これはMSRAから生まれた技術だ」と言われるような存在となり、将来の姿を定義できる研究所になっていきたいですね。そのためには、まだまだ努力しなくてはならない部分も多いといえます。

ただ、MSRAの研究者たちは、すでに論文を書くとか、既存のプロダクトに貢献するといった発想ではなく、社会課題はなにか、将来はどんな課題が生まれるのかということを前提とし、それを実現するにはなにが必要なのか、なにが足りないのかを考え、専門領域の垣根を超えて協業する重要性に気がついています。その姿勢が、ブレイクスルーにつながると思っています。

MSRAの研究者たち全員がエンパワーされ、アイデアを持ち寄り、新たなことに挑戦をし、それが将来につながるといった流れが生まれる仕事をしていきたいと思っています。MSRAは、いま正しい方向に向かっているという手応えがありますよ。