がんの「予防」は難しい

北海道大学 遺伝子病制御研究所 藤田恭之 教授

「これを食べればがんを予防できる!」といったような話題をよく耳にすることがあるかもしれないが、実はこれらを科学的に実証することは難しく、科学の世界においてがん“予防”の研究はこれまでタブー視されてきた分野であるという。しかし北海道大学 遺伝子病制御研究所 藤田恭之教授は、この科学界のタブーに切り込み「がんの予防薬」の開発を目指している。

藤田教授が着目したのは、現在臨床の対象外となっており、がん研究においてブラックボックスとなっているがんの「超早期病変」だ。がんは数年かけて徐々に蓄積されていく病気で、がん遺伝子およびがん抑制遺伝子にいくつかの変異が入ることによって発症する。つまり、正常な細胞が少しずつ変異していくことでがんになるというわけだ。

しかしながら、がんの超早期段階での病変は見かけ上正常にみえるため、現在の病理診断技術では発見することができない。欧米では今年から、潜在的な病変の早期発見と対策という研究分野に予算が付けられているというが、日本では残念ながらそういった事例はまだない。

藤田教授は2009年、正常な細胞にテトラサイクリンという抗生物質を加えることで、がんタンパク質を発現させるという細胞を作成。これを利用して、正常細胞に囲まれたところにがん細胞が存在するという、これまでブラックボックスとなっていたがんの超初期段階の環境を再現した。この際、正常細胞の社会からがん細胞がはじき出され、体外に排出される方向へ抜けていくという、いわば“村八分”的な現象が起こったという。これが、藤田教授がメインテーマとして研究に取り組む「細胞競合」だ。

正常細胞に囲まれたがん細胞がはじき出されていく様子

実はこの細胞競合の研究アイディアは、藤田教授が大学院生のころ、研究者と度々軋轢を起こすメンバーに対し「あいつは本当にがんのようなやつやなあ、どうしたら退治できるのだろうか」と考えたときに閃いたものだそう。藤田教授は「我々の手に負えないような極悪人が出現した際には警察が処理にあたるが、少し悪い彼のような人間に対しては周りの人間がなんとか排除、あるいは矯正しようと試みる。同様に、悪性度の高い腫瘍細胞は免疫細胞という特殊な細胞が処理にあたるが、“チョイ悪”の腫瘍細胞は周りの正常細胞がなんとか対応するのではないだろうか」と考えたのだ。

それまでのがん研究は、正常細胞と変異細胞をそれぞれ培養して、その違いをみるというものがほとんどだった。藤田教授らのチームが行った「正常細胞と変異細胞を混ぜて、その社会性を見る」という研究は、非常に画期的なアイディアであったと言えよう。

「細胞競合」はどうして起こる

では、細胞競合はどうして起きるのだろう。実は、正常細胞側も変異細胞側も、互いを認識しているということはすでに明らかになっている。しかし、それが分子の違いによるものなのか、物理的な形によるものなのかといったことはわかっておらず、細胞競合の世界の大きな謎となっている。

「我々の研究室では、お互いの認識機構がどのような分子メカニズムで起こっているのかということを明らかにしたい。しかしこれまでにない新しい研究なので、どうやってこういった分子を見つけたらよいかわからず、手探りの状態」(藤田教授)

同研究室では、正常細胞と変異細胞を混ぜたときにだけ量や働きが変化している分子を探しているところだというが、そのなかでも細胞骨格となる「ビメンチン」というタンパク質の作用がすでに明らかになっている。

ビメンチンは細胞競合の際、変異細胞の境界に濃縮してくる。これは正常細胞側からの影響で起きるもので、ダイナミックに構造を変えることができるフィラメント構造のビメンチンが、細胞競合の際に突起状に伸びてきて、変異細胞を突くように“攻撃”を始める。明らかに、正常細胞が変異細胞を認識していると言える現象だ。

正常細胞と変異細胞の境界で「ビメンチン」が濃縮。変異細胞を攻撃する

藤田教授によると、細胞競合にはビメンチン以外にも多くの分子が関わっていることが考えられるという。正常細胞と変異細胞の認識機構の全貌は、いまだ明らかになっていない。

細胞競合は平成26年~平成30年の文部科学省 新学術領域研究に採択されており、今後ますます発展していくものと思われる。しかし、がんの“予防”を目的とした研究自体にはこの科学研究費は利用できないという。そこで、藤田教授は現在、世界初のがん予防薬および診断薬を「細胞競合」という現象を利用して開発することを目標に、クラウドファンディングよる研究費獲得にチャレンジしている。

細胞競合を利用したがんの予防薬としては、2つの方法が考えられる。ひとつは、細胞競合の際に特異的に機能している分子を明らかにし、これを標的にした薬を開発するというもの。正常細胞の攻撃する能力を高める、または変異細胞側のディフェンスを弱めるといった、細胞の社会性を生かした薬だ。もうひとつは、細胞競合力を高められるような低分子化合物を同定し、これを薬として用いるというものだ。

またこれまでは、がんの予備軍細胞が存在するかどうかを診断する術がなかったが、細胞競合の際に正常細胞と変異細胞の境界で濃縮してくるタンパク質をバイオマーカーとすれば、診断薬開発への応用も見えてくる。

「私はもともと医学の出身なので、“がんを撲滅したい”という気持ちで研究をしている。細胞競合という新しい研究分野を利用して、これまでタブー視されてきたがんの予防に、クラウドファンディングを通じてみなさんと一緒に取り組んでいきたい」(藤田教授)

イギリスでは「Cancer Research UK」というがん研究への寄付活動を行う組織がある。Cancer Research UKではたとえば、街中にある同組織の店舗で衣服などを購入すると、それががん研究への資金となる。藤田教授によると「欧米では、国からの研究費のほかに一般の方のドネーション(寄付)が大きな比重を占めている」という。

がん研究において、今回のクラウドファンディングの目標である500万円というのは決して大きな金額ではない。しかし、今回のチャレンジの成否が、日本におけるがん研究、ひいてはサイエンスへの寄付文化を根付かせることができるかどうかの試金石となりそうだ。