東京大学生産技術研究所(東大生産研)は12月11日、多数の遺伝子等が関与する複雑疾病において、発病の早期診断や病態悪化の予兆検出を可能とする「動的ネットワークバイオマーカー(DNB:Dynamical Network Biomarker)」を発見するための基礎理論を構築し、その有効性を証明したと発表した。

成果は、東大生産研の劉鋭(Rui Liu)民間等共同研究員(科学技術振興機構 合原最先端数理モデルプロジェクト研究員)、同・陳洛南(Luonan Chen)客員教授(Chinese Academy of Sciences, Professor)、同・合原一幸 教授らの研究グループによるもの。研究の詳細な内容は、12月10日付けで英国総合科学雑誌「Scientific Reports」のオンライン版に掲載された。

バイオマーカーは正常(健康)状態と異常(疾病)状態の違いを定量的に示すことができるため、複雑疾病(例えば、がん、心臓病、糖尿病など)の診断において広く使われている。

しかし従来の(静的)バイオマーカーでは、正常状態と臨界状態(すなわち、疾病の早期状態や病態悪化の初期状態)の違いをはっきり識別することが困難なため、疾病の早期診断や病態悪化の予兆検出には有効ではなかった(画像1・2)。

画像1は、疾病の病態悪化過程の模式図。疾病の病態悪化過程は3つの状態からなる。つまり、正常(健康)状態、臨界(疾病前)状態、異常(疾病)状態だ。正常状態においてシステムは安定で、摂動に対して強い高ロバスト性・高レジリエンス(抵抗)性を持つ。

疾病前状態において、システムは外乱の影響を受けやすい低ロバスト・低レジリエンスを伴なう状態であり、小さな外乱を受けるだけで状態転移してしまう分岐点の近傍、すなわち、正常状態の限界に位置しているというわけだ。

ただしこの状態は、適切な処置・治療によって、正常状態へと回復できる可能性がある。疾病状態においては、健康状態と同様にやはりシステムは高ロバスト性・高レジリエンス性を有し安定だ。そのため、この疾病状態から正常状態への回復することは一般的に容易ではないのである。

画像1。疾病の病態悪化過程の模式図

画像2。従来の静的バイオマーカーとDNBの違い

そこで研究グループは今回、この問題に対してDNBを提案し、それにより、疾病の早期診断や病態悪化の予兆検出が可能であることを示した形だ。DNBは、従来のバイオマーカーのように正常状態と疾病状態を区別するのではなく、正常状態とその極限としての臨界状態、あるいは病態悪化の動的状態遷移過程をはっきり識別することができる。

さらに今回の研究では、「状態遷移ローカルネットワークエントロピー(SNE:state-transition-based local network entropy)」により「High Throughput生体データ」からDNBを求める高効率なアルゴリズムが開発された(画像3)。

画像3は、疾病の病態悪化過程と本提案手法の概念図。(a)従来のバイオマーカーは正常状態と臨界(疾病前)状態の違いをはっきり判別することが困難なため、疾病の早期診断には有効ではない。

(b)状態遷移ローカルネットワークエントロピー SNE は臨界状態である疾病前状態をはっきり識別できる。(c)SNE は健康状態や疾病状態においては殆ど変化しないが、疾病前状態においては、急に降下する特徴がある。そのため、疾病前状態を識別できる。

画像3。疾病の病態悪化過程と本提案手法の概念図

今回の成果は、非線形動力学理論と複雑ネットワーク理論によって、少ないサンプル数から得られる遺伝子やタンパク質の大規模発現データから疾病の臨界状態を同定する理論を確立し、疾病の早期診断や病態悪化の予兆検出に適用した。

その意義は、疾病の早期診断や病態悪化の予兆検出を実現できるだけでなく、さらに個人(テーラーメード)医療に適用もできることだ。すなわち、今回の手法によって、DNBを複雑疾病の早期診断や病態悪化の予兆検出に広く適用して、適切なタイミングで適切な治療をテーラーメードに行なうことが可能となるものと期待されるのである。

また、検出されたDNBは正常状態から疾病状態へ遷移をリードする動的複雑ネットワークであり、このDNBの概念自体は一般の複雑ネットワークの不安定化予兆検出にも応用できるため、さまざまな生命システムや大量の再生可能エネルギーを導入した電力ネットワークのような工学システム、さらには経済システムなどの不安定化予兆検出やその不安定化メカニズムの研究にも応用可能であるとした。