基礎生物学研究所(NIBB)は、福島県立医大、京都大学、東京大学、国際医療福祉大学の協力を得て、新しい高発現ウイルスベクター「逆行性TET-Offベクター」を用いることで、特定の部位に投射して神経細胞の全体像を可視化する新たな方法を開発したと発表した。

同ウイルスベクターを、霊長類である新世界ザルの1種である「マーモセット」の大脳皮質に注入したところ、細胞体の大きさの約1000倍の1cmの距離を超えて、反対側の大脳皮質に投射する皮質神経細胞を可視化することに成功したことも併せて発表している。

成果は、NIBBの山森哲雄教授、同・渡我部昭哉准教授、福島県立医大の小林和人教授、同・加藤成樹講師らの共同研究グループによるもの。研究の詳細な内容は、10月5日付けで米オンライン科学誌「PLoS ONE」電子版に掲載された。

脳はさまざまな種類の神経細胞が複雑に配線した神経回路から成り立っている。中でもヒトに代表される霊長類の脳では、「大脳皮質」と呼ばれる神経回路が特によく発達していることもご存じだろう。

神経細胞の樹状突起や軸索が驚くほど複雑な形態をしていることは、19世紀後半に開発された「ゴルジ染色法」により明らかになった。その後、形態を調べる手段として、遠く離れた脳部位間の神経連絡を調べることのできる「神経トレーサー技術」や、1つひとつの神経細胞を詳細に調べることのできる「色素注入法」、また最近では、蛍光タンパク質の遺伝子を導入する手法など、さまざまな手法が開発されている。

これらの技術を使って、脳の各部位に存在する神経細胞と、それらが構成する神経回路に関する知見はこの100年で飛躍的に深まったが、未だに多くの謎が残されているのもまた事実だ。特に、高度な精神活動の基盤だと考えられている霊長類の大脳皮質は、構造的にも機能的にも場所によって分化の程度が著しく、それぞれの場所において、どんな種類の神経細胞が存在し、それぞれどのような形態をして、どのように互いに連結しているのか、まだまだ十分な情報は得られていない。

文部科学省脳科学研究戦略推進プログラム(脳プロ)では、霊長類でも使える遺伝子操作技術の開発に取り組んできた。その成果の1つが、「高頻度逆行性遺伝子導入(highly efficient retrograde gene transfer:HiRet)ウイルスベクター」だ。

研究チームは、この逆行性ウイルスベクターを使って霊長類脳に蛍光タンパク質遺伝子を導入し、特定の脳部位に投射する神経細胞の全体像を可視化することに挑戦した。しかし、従来のHiRetウイルスベクターでは蛍光タンパク質の発現量が低いために、複雑な神経繊維の全体像を見ることは不可能だったのである。

そこで発現を増幅するために、「TET-Offシステム」を組み込んだ新しい逆行性ベクターシステム(逆行性TET-Offベクター)を構築した。(画像1)。このシステムを用いることで蛍光タンパク質が大量に作られ、神経細胞の微細構造の観察が容易となったのである。

画像1 TET-Offシステムを組み込んだ新しい逆行性ベクターシステム

逆行性TET-Offベクターを、マウスのいくつかの脳部位に注入し、大脳皮質の神経細胞に蛍光タンパク質を作らせた。その結果を示したのが、画像2だ。大脳皮質は層状の構造を取るのだが、今回テストした3つの脳部位(画像2の左下)につながる大脳皮質神経細胞は、それぞれ特徴的な神経繊維パターンが示されている。このパターンはこれまでの研究からの知見と一致しており、期待通り逆行性に効率よく神経細胞の全体を標識するウイルスベクターが作られたことがわかったという。

画像2 大脳皮質の神経細胞に蛍光タンパク質を作らせた結果

次に、この逆行性TET-Offベクターが霊長類脳でも使えるのかどうかを確かめるために、新世界ザルのマーモセットで実験を実施。マーモセットの大脳皮質は、マウスより大きく、大脳皮質内部でのつながり方も複雑さを増している。

画像3のようにマーモセット大脳皮質に逆行性TET-Offベクターを注入したところ、1cm離れた反対側の大脳皮質で、蛍光タンパク質によって可視化された神経細胞を確認することに成功した(画像3)。

画像3 マーモセット大脳皮質に逆行性TET-Offベクターを注入した様子

これまでにも神経細胞の形態を調べる方法はいくつかあったが、今回の方法の特徴は、蛍光トレーサーと同じように、特定の脳部位に注入するだけで、その部位に投射する神経細胞群の全体像を可視化できることだ。実際に、この方法を使って、霊長類脳の神経細胞を可視化することに成功したことは大きいだろう。

今後は、注入の仕方を工夫することで、霊長類脳の神経回路を構成するさまざまな神経細胞の形態が明らかになるものと期待できるという。また、高レベルの蛍光タンパク質発現が可能となったので、神経細胞を生きたまま観察するライブイメージングができる可能性がある。さらに霊長類だけではなく、遺伝子改変マウスや病態モデルの神経細胞の形態変化をスクリーニングする手法としても有効だと考えられると、研究グループは述べている。