7月19日~28日、世界68の国と地域から267名の高校生が東京に集まり、化学の力を競う国際大会『第42回 国際化学オリンピック(IChO2010)』が開催される。
日本で初の開催となる本大会の指揮を執るのは、ノーベル化学賞受賞者、野依良治氏(化学オリンピック日本委員会委員長/理化学研究所理事長)である。
野依氏に「科学と教育」への想いを語っていただいた。
![]() |
野依良治氏。化学者。工学博士。理化学研究所理事長、名古屋大学特別教授等役職多数。左右の手のように互いに鏡像関係にある光学異性体を選択的に合成する「キラル触媒による不斉反応」の研究により、2001年にノーベル化学賞を受賞 |
──科学(自然科学)とは、また科学が社会に果たす役割とは何でしょうか?
野依氏 自然科学の基本は自然界の真理を追究することにあります。人類の根源的な知といってもよく、永遠の文化的価値をもつものです。ポール・ゴーギャンの絵に「われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処へ行くのか」と題するものがあります。科学はこの問いに対して真正面から答えようとするものです。さらに科学知の活用によって生まれる技術は、文明社会の礎です。優れた科学技術こそが、我が国にとって国際競争力の源であり、また国際協調の柱となると考えています。
──「科学」と「技術」の活用については、どのようにお考えですか?
野依氏 科学は本来、真理を追究する営みです。一方近代技術の多くは科学知を利用してつくられたものです。多くの人が科学と技術を混同しているのではないかと思うことがあります。
科学と技術は相互に作用し合って進歩、発達していることは確かですが、科学は価値中立です。"良い物理" "悪い物理"というものはありません。科学にここから先に進んではいけないということはありませんが、技術利用の際に、価値の対立ないし社会的弊害が生じる場合があります。例えば、原子物理学の知識を技術としてどう使うか。安全な原子力発電は有用だが、核兵器の開発は穏当でなく、その使用は絶対にあってはならない。技術利用やイノベーションには、経済的、倫理的、文化的観点からプラス、マイナス両面の要素があり得ます。現代文明に光と影が出てくるのです。
──現代の科学教育に足りないものは何だとお考えですか?
野依氏 ひとつ挙げるとすれば、今までの科学研究は極度に「証拠主義」で進めてきたことがあります。その結果、現在、あるいは過去に起こったことを観察、理解することに限定されてきました。天体運動などを除くと、未来に起こることを知る、ということについては従来の科学研究は比較的無力でした。以前私たちは、憶測でモノを言うことが許されませんでした。今後は、コンピュータの発達によって、データベースが整い、学理がきちんと分かったという前提であれば、将来のことを相当の信頼性を持って予測することができるでしょう。
これまでは"理論と実験"が二本柱と言われていましたが、これからは"シミュレーション"が大きな力を持ってくると思います。さまざまな自然災害、社会災害の予知予測に役立てなければなりません。
重要なことは、今までの要素還元型のアプローチを全体論型の考え方へと変えていくことです。物事を総体として理解することは本当に大切です。若い人にはこの新たな方向へぜひ挑戦してほしいと思います。
教育について、我が国の大学は学部、研究科を教育体制として、時代遅れの分野別教育にいまだ固執しています。世界は少なくとも学際的教育に力を入れており、さらに進んで課題解決型プログラムを用意して教育研究する方向にあります。学生には、新たな領域を拓く能力を与え、また現存しない近未来に現れる職業に就くべく準備させるべきです。将来を担うのは先生ではなく、若者たちです。
──科学の目的とは何だと思いますか?
野依氏 科学とは自然真理を極めることですが、同時に人生80年を生きるための糧だと思っています。私はよく『なぜあなたは生きているのか? あなたが生きている本当の意味はなにか?』という聞き方をします。人それぞれでしょうが、私にとっての答えは、「自己実現」と「世代継承」のためです。「継承」すべきことは二つあります。一つは「種の継承」で、生き物としてのヒトにとって最大の目的です。社会性をもつ人間にとってもう一つ大事なのは「文化の継承」です。
これからは一世代の継承だけではなく「人類存続」を考えなければなりません。そのための科学や技術の役割は何であるかを考えていただきたい。
──人類存続に科学がなぜ必要なのでしょう
野依氏 コフィー・アナン前国連事務総長は2002年ヨハネスブルグ・サミットで、WEHAB+P、すなわち水(Water)、エネルギー(Energy)、健康(Health)、農業(Agriculture)、生物多様性(Biodiversity)そして貧困(Poverty)の解決こそ、現在から近未来における人類の最優先課題である、と総括しました。我が国は、WEHAB+Pにかかわる問題、人口爆発、気候変動、資源枯渇など人類社会の持続に向けた国際貢献が強く求められます。そのためには、やはり科学技術は中核的な要素になると考えます。十分条件ではありませんが、ほかに何があるでしょうか。科学はものの考え方、思想にも多大の影響を与えます。
自然科学を学ぶということによって、人びとは真っ当な自然観なり人生観を持ち、人間は謙虚になると考えています。これは大切なことです。
これからは、科学に基づく道徳といいますか、道徳律をつくり普及しなければならないと思っています。『神様から罰を与えられるから』と宗教的に規制してきたさまざまなことも、より科学的に捉えなければならない。宗教は多様ですが、科学は国境を越え、人種を超えて一つです。森羅万象の科学的な理解は民族、国籍の相違を超えて共通だからです。さもなければ地球規模の課題の解決はあり得ません。
──「文化の継承」の「文化」とはどういうことなでしょうか。科学の位置付けについてのお考えを教えてください
野依氏 私は科学者ですから、文化の要素を「科学・論理・情緒・言語」と考えます。先ほど述べたように、科学は一つですが、論理は必ずしもそうではありません。情緒は民族によって様々ですし、言語はさらに多様です。言語に導かれてこの順番に多様性が増していっている。そこには多様な文化がある。そしてこれらは人びとの心のよりどころです。だからこそ、文化を尊ぶ文明をつくっていかなければなりません。
我が国にとって飛鳥時代、平安時代からの伝承文化も大切だと思いますが、それだけでは不十分です。今は、世紀の狭間ではなく千年紀の狭間です。そして、前千年紀との最も大きな相違はグローバル化です。我々は新しい文化をつくらなければなりません。そして発信しなければならない。社会の豊さと人類の存続のためにです。
日本人が誇りとする、そして世界を魅了する国にするには、さらに科学と技術が必要です。そして、「科学・論理・情緒・言語」の4要素はつながっていなければ文化国家たり得ません。文筆家や芸術家も科学者も、いつも多様に考えながら、相携えて成長していく必要があります。そうしてはじめて世界から尊敬される国になるはずです。
──子どもたちに伝えていきたいこと。国際化学オリンピック等の活動への想いをお聞かせください
野依氏 先ほどもお話しましたように、「論理・情緒・言語」も視野に入れて、科学の質を高めて、その意義を唱えていかない限り、我が国の文化度は上がりません。現代は、あまりに物質的な文明によって文化が蹂躙されているように思えてなりません。先人のつくった美しいもの、愛しいものが失われつつある嘆かわしい状況です。
戦後の日本はあまりにも経済優先主義であったように思います。私は、未来を担う日本の子供たちにいつでもどこでも「日本とは、人類の生存に貢献する国だ」と誇りをもって言ってほしいのです。「限りある地球の枠組の中で、豊かな人類社会の存続にむけて貢献する国」、これを国是としていただきたい。日本国憲法も、平和外交も、産業経済、文化、優れた教育、そして我らが科学技術もそのためにある。すべて国際競争力というよりは品格と信頼感ある国家をつくるためにあるのではないでしょうか。素晴しい未来社会をつくるためには、自然について科学的にしっかりと知ることがとても大事です。そのような思いを若い子たちに伝えたいのです。
私がノーベル賞をいただいた後に大きく変化したことは、研究社会だけでなく、広く一般社会との関わり合いが強くなったことです。様々な分野のリーダーの方たちと知り合いになり、話し合う機会を持てるということは楽しくもあり、ありがたいことだと感謝しています。
だからこそ、後進を正しく導かなければいけない、科学の素晴しさと技術の重要性を世の中に知ってもらいたいという思いで活動をしています。
科学の価値
科学研究とは、果てしなく続く「知の旅」である。目的地への到達よりも様々な出会い、良い旅をすること自体に大きな意味がある。優れた研究は有為の人を育て、また社会にも貢献する。(野依良治氏)
国際化学オリンピック
1968年に東欧3ヵ国(ハンガリー、旧チェコスロバキア、ポーランド)が始めた高校生の学力試験から発展した、1年に1度開催される「化学」の国際大会。今年は世界68の国と地域から267人に及ぶ高校生が参加する。毎年7月に開催される10日間の大会中、それぞれ5時間に及ぶ実験試験(Experimental Examination) と筆記試験(Theoretical Examination)が出題され個人戦として競われる。成績優秀者には金メダル(参加者の1割)、銀メダル(同2割)、銅メダル(同3割)が贈られる。また、期間中は試験だけでなくExcursionと呼ばれるプログラムが用意されており、その内容はスポーツやゲームから開催国独自の文化を体験するものまで多岐に渡る。公式サイト