インフラツーリズムとは、公共施設や巨大構造物のダイナミックな姿や精緻な構造を間近に観察したり、通常はなかなか立ち入ることのできない施設や現場を見学したりして、日常生活では得られない視覚的・感覚的な体験を味わう小さな旅のスタイルである。
遠出をしなくても、都市のすぐそばにある“日常の外側”へアクセスできるのも魅力だ。本コラムでは、筆者が実際に現地へ赴き、歩き、見て、感じたインフラツーリズムの現場を紹介していく。今回は東京の水路をめぐった。
東京の水路には、深い歴史がある。江戸の昔、運河や掘割が網の目のように張り巡らされた町では、塩や米、醤油や材木といった生活必需品が舟で運ばれ、人々や文化も水の道を通って出入りしていた。
それから長い年月を経て、東京都心の水路は今や、まるで隠居生活に入ったかのような静けさを漂わせている。
閘門の役割と仕組み
残暑厳しき8月末の平日昼、僕は荒川ロックゲート、旧小松川閘門、扇橋閘門を訪ね歩いた。荒川ロックゲートも閘門のひとつだが、そもそも“閘門(こうもん)”とは何か。
川や運河はたとえ近くにあっても、場所によって流れる高さ(水位)が異なる。もし水位の違う2つの水路をそのままつないでしまうと、水が一方へ滝のように勢いよく流れ込み、船はとても通れない。その問題を解消するのが閘門である。
つなぎたい2つの水路の間に、前後の水門で仕切られた区画をつくり、その中に船を入れて水位を調整する。いわば“水のエレベーター”のような仕組みだ。水位がそろうと水門が開き、船は次の水路へと滑らかに進んでいく。
世界的に有名なのはパナマ運河で、太平洋と大西洋を結ぶ途中にあるガトゥン湖は海面よりおよそ26メートル高く、その高低差を巨大な閘門群が克服している。もちろん東京の川にそこまでのギャップはないが、荒川や隅田川、運河網の間にも最大数メートルの水位差が存在し、船の航行を可能にするためにいくつもの閘門が設けられている。
そんな巨大装置、閘門が稼働する姿を見たかった。しかし結論から言うと、この日は待てど暮らせど船は来ず、実際に動くところは見られなかった。時季や時間が悪かったのかもしれない。ただ、この静けさそのものが、東京の河川や運河がかつての物流機能を離れ、別の役割へと移っている現実を物語っているようにも感じられた。
荒川放水路と岩淵水門
荒川ロックゲートが位置する荒川下流部は、実は自然の川ではない。全長173キロメートルに及ぶ荒川のうち、東京都北区の岩淵水門から東京湾の河口までの約22キロメートルは、1910年(明治43年)の大洪水を契機に計画された人工の放水路である。
工事は1913年(大正2年)に着工、1924年(大正13年)に岩淵水門の完成とともに通水が始まり、関連工事を経て1930年(昭和5年)に荒川放水路は完成した。延べ310万人が従事した大工事だったという。
分派点に立つ岩淵水門は、荒川(放水路)と旧流路(現在の隅田川)の流量を管理している。平常時、隅田川は岩淵水門からの流れに加え、新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流を受けながら東京湾へ流れ続けている。
一方で洪水時には、岩淵水門を閉めて隅田川への流入を抑え、荒川本流側に水を逃がすことで下流域の氾濫を防ぐ――この運用が現在の基本である。1965年(昭和40年)には名称整理が行われ、放水路側を「荒川」、岩淵水門から東京湾までの旧流路を「隅田川」と正式に呼ぶようになった。
つまり、僕が訪ねた荒川は、厳密には「荒川放水路」。直線的で広大な人工河道なのである。
荒川ロックゲートの機能
その荒川放水路と旧中川を結ぶのが、江戸川区小松川一丁目にある荒川ロックゲートだ。平成17年(2005年)に完成したこの閘門は、最大で3.1メートルある両水路の水位差を調整し、舟運の連続性を確保する。閘室(閘門の中心となる船を入れる区画)の長さは約65メートル、幅は14メートルで、長さ55メートル以下、幅12メートル以下の船が通航できる。
平時の通航時間は、9月から5月が午前8時45分から午後4時半まで、6月から8月は午後6時まで。その時間内であれば水上オートバイのような小型動力船以外の船は進入可能となっている。
【動画】荒川ロックゲートは自由にのぼることができる
しかし、荒川ロックゲートの横で炎天下1時間待っていたが、ここを通ろうという船は一艘も来なかった。
実は、現在の荒川ロックゲートの主目的は物流ではなく防災である。大規模災害で陸上交通が途絶しても、水上輸送で救援物資や人員を運ぶために活用する――これが設計の中心思想であり、平時は待機状態がデフォルトなのだ。
現地の段状護岸は見学者の観客席のようで、開閉や水位調整の様子を至近距離で見られる造りになっているが、この日は人影もなく川風だけが流れていった。
荒川ロックゲートが接続する旧中川も、歴史を抱えた川だ。もともとは中川の本流だったが、荒川放水路や中川放水路、新中川の開削によって水系が組み替えられ、分断された西側の下流部が昭和41年(1966年)に「旧中川」と改称された。
流路延長はおよそ6.68キロ。現在は親水公園や遊歩道が整備され、カヌーや釣りの風景も見られる。
【動画】階段状に整備され、見学できるようになっている閘室の周囲
旧小松川閘門の遺構
次に訪れた旧小松川閘門は、大島小松川公園「風の広場」に片側のゲートだけが保存されている、役目を終えた遺構だ。
昭和5年(1930年)に竣工した旧小松川閘門は、荒川放水路と旧中川の水位差を調整して航行を可能にしていたが、舟運の衰退により昭和51年(1976年)に廃止。まるで城郭のような意匠を凝らした水門が、往時の土木建築技術と水運の盛況を物語る。
荒川放水路の開削によって新たに生まれた“水の段差”という課題に挑んだ重厚な構造物を眺めていると、そこを往来した数知れない往時の舟影が偲ばれた。
扇橋閘門と小名木川
少し移動し、小名木川の小松橋近くにある扇橋閘門へ。徳川家康の江戸入府前後に開削された小名木川は、延長約4.6キロ、隅田川と旧中川を一直線に結ぶ人工河川である。利根川水系と江戸城下を結ぶ物流路として機能し、千葉の行徳から江戸への塩の重要な輸送路だったという。
1977年(昭和52年)に完成した扇橋閘門は、最大3メートルの水位差をサイフォンを使ってポンプなしで調整する仕組みを持っている。閘室の有効延長は110メートル、有効幅員は11メートルで、長さ90メートル、幅8メートル以下の船が通れる。通航時間は荒川ロックゲートと同じだ。
この日、僕は新扇橋と小松橋の間にある閘門監視所脇の遊歩道でまた一時間待った。しかしやはり船は来ず、水面に映る赤い信号はずっと変わらなかった。
戦後の埋め立てと再評価
戦後の東京では、水運の衰退とともに不要となった運河を埋め立て、道路として転用する事業が各地で進められた。戦災復興と高度経済成長のただ中、中央区京橋周辺などでは運河が次々に姿を消し、その跡地は再開発の舞台となっていった。
しかし現在では、運河を「埋めて消すもの」から「残して活かすもの」へと発想が変わっている。背景にはいくつかの要因がある。
まず、防災機能の再評価である。大雨時には都市の排水先として河川や運河が重要な役割を担うことが改めて認識された。また下水道整備の進展により、かつて悪臭や汚濁が問題となっていた水環境が改善されたことも大きい。
さらに1980年代以降は、水辺を市民が親しめる空間へと変える「親水テラス」の整備が各所で進められ、川沿いを歩く、憩うといった利用が広がった。加えて、舟運を観光や物流の手段として再び導入する社会実験も行われている。
こうした流れを経て、運河は「危険だから埋めるべき存在」ではなく、「安全・にぎわい・歴史資源」として、都市の中で再評価される対象へと変貌を遂げたのである。
この日、2つの現役閘門で費やした待ち時間は、稼働を見られなかった残念さと同時に、この静けさも無用ではないのだということを考えさせてくれた。かつての喧騒は遠のいたが、そこに流れる時間と風景は、都市のもうひとつの表情を静かに語っていた。











