インフラツーリズムとは、公共施設である巨大構造物のダイナミックな景観を楽しんだり、通常では入れない建物の内部や工場、工事風景などを見学したりして、非日常を味わう小さな旅の一種である。
いつもの散歩からちょっと足を伸ばすだけで、誰もが楽しめるインフラツーリズムを実地体験し、その素晴らしさを共有する本コラム。今回は、東京の国立競技場が不定期で開催する「スタジアムツアー」に参加してみた。
国立競技場のスタジアムツアーは、ガイドの案内つきで約90分をかけ、スタジアム内部の各エリアを巡る内容である。
巨大な競技場は、きわめて制御された複合機能施設だ。
各種陸上競技やサッカー、ラグビーなどで、アスリートの最高のパフォーマンスを引き出せる環境であることを第一義としながら、大規模集客施設として“観せる”ための機能性と演出性、観客動線の処理、快適性と安全性、そして建物としての合理性と美しさ、威厳が同時に求められる。それらの要素が都市計画や建築工学と結びついた、まさに建築インフラの極致と呼ぶべき存在だ。
そんな競技場の中でも“わが国最高峰”とも言うべき、東京・国立競技場の内部。普段は立ち入ることができない場所まで見学できるこのツアーは、非常に貴重なものだ。参加費は2,500円、参加者はざっと30名ほどだろうか。
現在の国立競技場は、2020年(令和2年)の東京オリンピック・パラリンピックの開催にあたって新築された施設である。
もともとこの地には、1958年(昭和33年)に竣工した国立霞ヶ丘競技場があった。1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、開閉会式をはじめ、陸上競技、サッカーなどが行われた場として知られる。
その旧・国立競技場は老朽化と国際基準に合わなくなったため、2015年(平成27年)に解体。敷地内にまったく新しい設計で建て直されたのが、現在の新・国立競技場である。 設計は建築家・隈研吾を中心とするチーム。鉄骨と木材を組み合わせた大屋根と、緑化された外装が特徴的で、「杜のスタジアム」とも呼ばれる。
記憶の中の旧・国立競技場に想いを馳せる
旧・国立競技場には、筆者自身にもいくつかの記憶がある。学生時代、そして社会人になってからも、大学ラグビーの試合観戦でよく訪れたのだ。
関東大学ラグビー対抗戦は通常、近隣の秩父宮ラグビー場で開催されるが、観客数の多い伝統の一戦、リーグ最終戦の早明戦(早稲田大学 対 明治大学)は毎年、国立競技場が舞台となる。師走の寒さに凍えながら観戦するのが、毎年の楽しみだった。
2013年12月1日、旧・国立競技場で行われた最後の早明戦の試合後には“さよなら国立セレモニー”があり、両チームの前で松任谷由実が名曲『ノーサイド』を歌唱した。その日もスタンドで観戦していた僕は、涙こそ出なかったが、胸に熱く込み上げてくるものを感じた。
また、2006年12月3日に旧・国立競技場を貸し切って開催された、A BATHING APEのNIGOプロデュースによる、FENDIのイベントも強く印象に残っている。フィールド内の特設テントでFENDIの新作バッグやコラボアイテムを披露し、競技場のどのエリアだったか記憶が定かではないのだが、ライブハウスのようなパーティー会場になっていた。
特設ステージではゲストのカニエ・ウェストによるライブが行われ、多くの著名人の姿がそこかしこに見られた。
国立競技場という場を貸し切って開催したこと自体が、イベントに圧倒的な箔を与えていたのは間違いない。この場所が持つ“特別な磁場”のようなものを、強く意識させられた体験でもあった。
筆者に限らず、日本中の人々にとって旧・国立競技場は、多かれ少なかれ記憶に刻まれている存在だろう。その幾層もの記憶のレイヤーの上に、今の国立競技場は建てられている。そんなことを考えながら集合場所に到着、スタジアムツアーが始まった。
展望デッキからスタジアムを一望
最初に案内されたのは、一般観客エリアの中でも最上階にあたる“4F 展望デッキ”。
スタジアムの全景と周囲の自然や、都心の高層ビル群まで一望できる、絶好のロケーションである。
ここからは、国立競技場の大きな特徴である座席の色彩配置がよく見渡せた。ブラウン(茶色)、ベージュ(薄茶)、ダークグリーン(濃い緑)、ライトグリーン(薄い緑)、ホワイト(白)の5色で構成された座席のランダムな配置は、全体に不思議な調和を生んでいる。
下層に多い茶系は土や樹幹を、中間層に多い緑系は木の葉を、上層に多い白系は眩い日光を表し、森の景観を思わせる設定になっているのだ。またこの配色は、観客が少ない場合でも空席が目立たないという視覚効果も持ち合わせている。
そのため、無観客開催となった2020年東京オリンピック・パラリンピック(コロナ禍により1年延期の2021年開催)にて、寂しさをいくぶん和らげる効果を発揮してくれたのは記憶に新しい。
全座席は背もたれを備え、着席時の前後間隔もゆったり確保しているなど、快適性は高い。前列の客の頭で視界が遮られることがないよう、スタンドには綿密な計算に基づいた勾配がつけられている。
外周をぐるりと覆う大屋根は、鉄骨構造に木材パネルを貼り付けた仕上げ。使用されているのは全国47都道府県産の木材だ。
地域性を取り入れつつ、太陽光と降雨を遮り、スタジアム内の温度上昇を抑える機能を持つ。自然換気による通風効果も含め、都市の中心部にありながら、人工的な熱気や密閉感を最小限に抑える設計思想が読み取れる。
この地点から見下ろすと、フィールドははるかに遠い。だが視界を妨げる構造物はほとんどなく、すべての座席がフィールドを正面にとらえられる視野角となっている。大型スタジアムにおいて“どこからでも見える”ということは簡単ではないが、この競技場は、それをかなりの水準で達成しているのだ。
ツアーご一行様、VVIP貴賓室に進入
続いて案内されたのは、3階に設けられた“VVIPエリア”、すなわち貴賓室である。
天皇陛下や内閣総理大臣などの要人が利用する部屋との説明があった。熱中症対策もあってツアー中は原則どこでもOKとされていた飲み物も、ここでは不可と告げられる。足を踏み入れる前から、否が応でもやや緊張が走った。
そこは、想像していたよりずっとシンプルな空間だった。
しかし細部を見ると、木目の綺麗な木材であつらえた天井や柱、和紙が貼られた壁紙、落ち着いた間接照明など、気品ある静謐(せいひつ)なラグジュアリー空間であることが伺えた。ソファやテーブルといった調度品にも華美さはなく、むしろ機能性と簡素さが強調されている。
天皇陛下が実際にお座りになるソファは、普段はガラスケースに収められた状態で展示され……ということもなく、ガイドさんの説明によると「オリンピックのときに陛下がお座りになったソファがどれかはわからないので、もしかしたら皆さんが座っているソファがそれかもしれません」ということだった。さすが、民主主義国家である。
貴賓室の窓からデッキに出ると、背もたれの大きい革張りの椅子がいくつか設置されていた。
そのうちのひとつに着席。
戯れに、誰もいない観客席やフィールドに向かって手を振ってみたりして……。なかなか優雅で楽しいひと時だった。
ツアーの一行は、貴賓室=VVIPエリアから歩いて、VIPエリアへと移動する。途中で絨毯の色が変わるポイントがあり、そこがVVIPとVIPの境界なのだそうだ。
VIPエリアとVVIPエリアの何が違うかといえば、ガイドさんによると「要するに、金を積めば入れるかどうか」。
一般には入れないが、金さえ積めば入れるのがVIPエリア。なるほどわかりやすい。さすが、資本主義国家だ。
【動画】VVIPエリアからVIPエリアへ
2階・VIPラウンジから地下2階・選手エリアへ
VIPルームや、一般席よりフカフカした椅子が設置されているスタンドのVIPシートを見学しつつ、ツアーの一行は進み、2階にある“VIPラウンジ”に入る。
ここは、特別なゲストやスポンサーに提供される、ホテルのバンケットルームのような広々とした空間。864平方メートルと645平方メートルの2室があり、合わせてスタンドのVIPシート数と同じ1,500名を収容できるそうだ。
競技中継の映像を流す100インチの大型モニターが設置され、絨毯敷きの床に、障子を模した壁面、一部木製の天井などが特徴。シンプルな椅子やテーブルもあり、飲食しながらリラックスして試合やイベントを楽しむことができるようになっていた。
そしていよいよ本ツアー最大の見どころである、選手エリアへと誘われた。
地下2階にある選手エリアでは、試合の中継などにも映る、選手が競技前後に使用する入退場口、ロッカールーム、そして実際にフィールドへと通じる導線などを歩くことができる。
東京2020オリンピック・パラリンピックで実際に使われた聖火トーチや表彰台も展示している広々とした空間は、入場前に選手たちが整列するエリアだ。
特徴的な行灯のような形の照明から、「andonホール」と名付けられていて、750平方メートルもの広さがある。
続いて選手たちの控え室であるロッカールームへ。
木材を活用した部屋は、どこからでもその場にいるメンバーを見渡せ、チームの一体感を高められるよう楕円形になっている。
ここと同じ80平方メートルの部屋が、サイドごとに2つずつ、計4部屋あるという。ロッカールームの周りの通路の壁には、この国立競技場で熱戦を繰り広げた選手たちのサインが残されていた。
そして最後に案内されたのが、選手入場の導線である。andonホールから通路を歩いてゲートを通過すると、そこはまさしく国立競技場のフィールド!
【動画】選手になった気持ちで入場ゲートをくぐりフィールドへ
もちろん見学会の当日はオフ日なので、フィールドも観客席もわずかな見学者やメンテナンス中のスタッフがちらほら見えるだけだが、もしこの四方が人で埋め尽くされていて、歓声がこだましていたら、どんな気持ちになるのだろう? やっぱりアドレナリンが出まくるのだろうな、などと思う。
フィールドの天然芝エリアは見学ツアーでも立ち入り禁止だが、トラックの一部エリアは自由に歩くことができたので、手でトラックの感触を確かめてみたりした。ここで闘う一流アスリートの気持ちを想像しながら。
人を集め、光や音、歓声を受け止める構造体である国立競技場。静まり返ったオフ日のスタンドに立ってみると、この場所が一種の記録媒体のようにも感じられた。無数の個人の記憶が、あちらこちらに沈殿しているように思えたのだ。
出口に向かう途中、最後にフィールド全体を振り返った。そこには誰もいない巨大な空間があるだけだったが、なんだか去るのが名残惜しかった。
























