「現場の品質管理を10倍ラクに」をコンセプトに掲げる、ノンデスクワーカー(現場作業員)向けの業務効率化アプリ「カミナシ」。2020年6月29日に正式ローンチした同アプリは、2016年に起業したカミナシ社が、約3年の間、主軸として開発/提供していた食品工場向けサービスに見切りをつけ、背水の陣で臨んだゼロからの開発プロジェクトによって生まれた”切り札”だ。

残りの運転資金は10カ月分にも満たない逼迫した状況下、新たに屋台骨を担うサービスについて議論するなかで、同社代表取締役 諸岡裕人氏にはどうしても譲れなかった信念があったという。

カミナシ誕生の経緯や、同社のミッションに込められた想い、今後の展開について、諸岡氏に話を聞いた。

カミナシ社 代表取締役 諸岡裕人氏

カミナシ社 代表取締役 諸岡裕人氏(取材はオンラインで実施、写真は全て別日にカミナシ社が撮影)

苦境でも譲れなかった”原点”

起業家だった父親に影響を受け、32歳で起業すると決めていた諸岡氏。父親の事業が食品業界向けサービスであり、自身も機内食メーカーに勤務した経験があったが、だからこそ当初は「全く違う業界で起業したかった」と話す。

「子供の教育関連のサービスなど、100以上の事業アイデアを考えましたが周囲の反応はいまいちでした。ある時、ベンチャーキャピタルや起業家の方たちが集まった場で前職の(食品業界の)話をしたら、すごく興味を持ってもらえたんです」(諸岡氏)

食品業界の現状が全く知られていないことに勝機を見い出した諸岡氏は、2016年12月、カミナシ社の前身となるユリシーズを起ち上げ、食品工場向けの品質管理サービス「SmartQC」を開発。途中、リニューアルなどしながら約3年間ブラッシュアップを続けたが、そもそも「市場規模を見誤っていた」のだという。

「食品製造業は日本に約4万事業所あります。ここから10年で10%のシェアをとろうと考えていましたが、実際にプロダクトを買ってくれたのは、いちばん小さいところでも、その売上規模は20億円でした。20億円以上の規模の事業所数は4000しかありません。その10%となるとたった400です。提案を断られるたびに、無意識に400からの引き算をして焦っていました」

諸岡氏

このままではダメだと薄々わかってはいたが、ほかに良案があるわけでもない。数カ月悩んだが、創業からのメンバーであり、当時CPOを務めていた三宅裕氏と話し合うなかで「これ、ダメじゃないですかね」と明るく言われ、腹が決まったという。

今のサービスを辞めると決断したのはよいが、次を支える新規事業が必要だ。諸岡氏を含め8人の社員が一丸となって議論するなかで、ホワイトカラー向けのチェックリスト管理システムが提案された。事務仕事のプロセスを管理するもので、業界は違えども現場のチェックリストを作ってきた知見を生かせること、海外でも一定の成功事例があったことから、諸岡氏を含め全員賛同し、意見はまとまったかのように見えた。

――だが、最後にこれを覆したのは諸岡氏だった。

「ノンデスクワーカーの働く現場を良くするサービスを作りたいというのが原点だったのに、そこを手放してしまったら、自分が会社を続ける意味がないんじゃないかと思ったんです」

議論を重ねた結果、三宅氏とは円満ながらもここで袂を分かつことになった。プレシリーズAで調達した資金は、社員の給料やオフィスの家賃を考えると、後10カ月分ほどしか残っていない。諸岡氏は全ての情報をメンバーに開示し、10カ月以内に新サービスをローンチしなければならない状況を共有した。その結果、「皆の意識が変わって、緊迫感が生まれた」と振り返る。

諸岡氏らは、前回の反省を生かし、「業界を絞らずに水平展開できること」「やさしい課題を低価格で解決できるものであること」の2つの方針を定め、ゼロからサービスの検討/開発に取り組んでいった。そうして生まれた業務効率化アプリが「カミナシ」だ。

カミナシは、工場や小売店、飲食店、ホテルなどの現場で従来、紙ベースで行われていた品質管理や在庫チェック、衛生管理、機材点検といった作業をタブレット/スマートフォンで行うことができるというもの。作業者の入力に応じて次に実行するべきフローを提示するマニュアル機能を搭載するほか、作業チェックやデータ集計/報告書の作成も自動で行われる。諸岡氏らが何度も現場に足を運んで入念にヒアリングし、さまざまな業界に対応可能なテンプレートが用意されている点が強みだ。

今だからこそ生まれたミッション/ビジョン

<MISSION>
ノンデスクワーカー3000万人の作業品質と生産性を向上させること。
現場スタッフの利便性向上に際して、できることは全てやる。

<VISION>
ノンデスクワーカーSaaSの領域で日本No.1の企業になる。

現在のミッション/ビジョンが生まれたのは、カミナシの正式ローンチに向けて追い込みをかけていた今年の4月頃のことだ。諸岡氏は、「現場から紙をなくすことだけがミッションではない」と強調する。IT化が遅れるノンデスクワーカー業務の課題は、品質管理の分野に留まらない。教育やコミュニケーション、目標管理など、領域は絞らず、解決し得るものは全てアプリで提供していく構えだ。

また、そのためのビジョンには「ノンデスクワーカーSaaSの領域で日本No.1の企業になる」ことを掲げた。ここで言うNo.1の定義は、売上である。

「売上がNo.1であれば、ユーザー数もNo.1であるはずです。それはつまり、日本で最もノンデスクワーカーに受け入れられ、役に立つサービスを提供しているということになると考えています」(諸岡氏)

具体的な数字としては、ARR(Annual Recurring Revenue:年間経常収益)100億円を目指し、日本一を達成した暁には世界進出も見据えるという。

「現状の会社の規模感で『ARR100億円を達成する』と真顔で宣言するのは、なかなか恥ずかしいです。今は対外的にも発信していますが、僕自身、半年前くらいまではできませんでした。でも、3年間やって失敗したことから学んで今、成果が出てきているし、応援してくれる人も増えました。そう考えると、失敗したり、恥をかいたりするのは決して悪いことではないと思えるようになったんです」

つまり、失敗せず、恥もかかないで済むような心地良い環境から出なければ、大きな成長は見込めないというわけだ。諸岡氏は「皆で一緒に失敗して、恥をかきながら、真剣にノンデスクワーカーSaaSの領域で日本No.1/ARR100億円を目指す集団にしたい」と想いを語る。

浸透の秘訣は「対外的に発信すること」

これらのミッション/ビジョンを策定した時期は、社内が慌ただしかったこともあり、諸岡氏がトップダウンで決め、1on1で社員に説明していく形式をとった。

実は起業初期、ミッション/ビジョン/バリューを決めるために合宿までしたこともあったのだという。検討方法は、ホワイトボードにキーワードを書いた付箋を貼ってブレーンストーミングしながら作っていく、ベンチャーではおなじみのスタイルだ。

「そのときのミッション/ビジョンはもうよく思い出せません。『プロブレムファースト』とか、いかにも”それっぽい”感じの内容で、1カ月もしないうちにだれも使わなくなりました(笑)。今回は、普段から自分が社内で言っている内容をそのままステイトメントにしただけなので、決める苦労もありませんでしたし、説明したときもすんなり受け入れてもらえました」

諸岡氏

社内でコンセンサスがとれた後は、情報発信サイト「note」で社外に向けて発信。諸岡氏は日頃からnoteで自分の考えや想いを定期的に発信しており、それを読んで共感した人が入社を希望してくれたこともあるという。

同氏は「対外的に宣言すると、最初からビジョンを共有した状態で人が集まって来てくれるし、外からそういう目で見られるようになると、自分たちもその色に染まっていきやすい」と外に向けて発信することのメリットを説明する。

ノンデスクワーカーが働く現場をより良くするために

一方、バリュー(価値観)については、「実際に業務を行うなかで生まれてくるもの」だと考えており、ボトムアップで現場から上がってくることを期待する。

例えば、諸岡氏自身は、これまでの経験から「現場に行く」ことを重視している。現場で働く人たちのためのサービスをつくるのに、遠いオフィスから話を聞くだけで現場の賛同を得られるサービスが生まれるとは思えないからだ。

「現場に行くのは、口で言うほど簡単ではありません。時間もかかるし、工場に入るには着替えたり、消毒したりしなければならないことも多くあります。面倒ですが、現場の環境や働くスタッフの様子など、かかる手間以上の貴重な情報を得られるんです」

諸岡氏

もう一つ、ミッション/ビジョンの遂行のために決めているのが「自分たちより優秀な人材だけを採用する」ことだ。諸岡氏がこれを社内で話した当初、一瞬怪訝な顔をしたエンジニアに「では、自分よりも劣る人材ばかりを採用して、その頂点に自分がいる状態になって嬉しいか」と尋ねたところ、そんな会社は嫌だと即答されたという。もちろん諸岡氏も、常に自分より優れた人材に囲まれながら、自分自身の価値を磨いていく姿勢だ。

「人間が月にまで行っているこの時代に、ノンデスクワーカー業界のIT化が進んでいないのはなぜなのか。それは、優秀な人材が入ってきていないからだと思うんです。だとしたら、この業界に最高の人材に入ってきてもらうことで、ノンデスクワーカー業界の働きやすさを底上げしたいと考えています」

プライベートではタブレットやスマートフォンといった最新機器を利用しているのに、仕事となるとなぜかアナログな環境を強いられがちなのが、今のノンデスクワーカーの実情だ。その働き方をカミナシがどう変えていくのか、今後の動向に期待したい。