前回、情報通信技術の進化が鉄道の信号保安システムに貢献している一例として、移動閉塞システムのATACS(Advanced Train Administration and Communications System)やETCS(European Train Control System)を取り上げた。実は、コンピュータ技術やデジタル変調技術などを信号保安の分野で駆使している事例は、このほかにも存在するので、今回はその話を。

信号保安システムとは

本題に入る前に、そもそも信号保安システムとは何かという話をしておこう。

前回、鉄道の安全を支える根幹である「閉塞」という考え方と、そこで運転士に進行、あるいは停止の指示を出す手段としての「信号機」の関係について解説した。信号機は線路脇に色灯式のものを建植することもあれば、運転台に表示する「車内信号」を用いる場合もある。車内信号は主として、急カーブが多くて見通しがきかない地下鉄や、高速運転を行う新幹線で使用している。

ただしどちらにしても、単に信号機が現示を行うだけでは、「信号無視」の可能性が残る。業界用語では「信号無視」ではなく「信号冒進」というが、なんにしても危険につながる一大事である。

ただ、気をつけていても見落としてしまう、あるいは視界不良で信号機の確認が難しくなる、といった可能性もある。基本的には人間に頼るとしても、機械によるバックアップは必要ということで、信号冒進が発生した際に強制的に減速、あるいは停止させる仕組みを取り入れるようになった。それが、自動列車停止装置(ATS : Automatic Train Stop)、あるいは自動列車制御装置(ATC : Automatic Train Control)である。

先に登場したのはATSで、当初は停止信号(赤信号)を冒進すると非常ブレーキをかけて強制的に止めるというだけのものだった。それと比べると、ATCは連続的な制御が可能で、複数の速度信号を設けて段階的に減速するようになっているだけでなく、新幹線のATCみたいに「機械優先」にして自動的に減速操作を行わせる、といった具合に高機能化している。

ところがATSも機能向上が進んでいるので、古いATCよりも最新のATSの方が高機能になり、ATCから最新のATSに更新する、といった下克上な(?)事例もある。それはともかくとして、昔のATCやATSと最新のそれで大きく異なるのが、地上側の信号装置から列車に対して送信できる情報量の違いなのである。

デジタル化によって多様な情報の伝送が可能に

ATSが列車に対して「停止」などの指示を出すには、地上子と呼ばれる一種のアンテナを使用する方法と、レールに電流を流す方法がある。前者では地上子を設置した場所でだけ情報の伝達が可能だが、後者では連続的な情報の伝送が可能だ。

ただしいずれにしても、昔の方法では伝送できる情報が極めて限られていた。具体的にいうと、地上子なり軌道回路なりに「○○Hzで変調した電流を流す」と、車両側に設置した車上子(地上子を用いる場合)あるいは受電器(レールを用いる場合)が反応して電流を発生するので、それを読み取ることで停止の指示を受け取る仕組みだ。地上子やレールに流す信号を変調する周波数を変えれば、車上子や受電器が発する電流の周波数も変わるので、複数の種類の情報を伝達できる。しかし、一度に伝達できる情報がひとつしかないことに変わりはない。

ところが、コンピュータやデジタル変調の技術が発展したことで、話が変わった。単に特定の周波数で変調した電流を流すのではなく、デジタル変調を行った電流を流すのだ。それを車両側で受信して内容を調べれば、多様な情報の伝送が可能になる。

使用している変調方式はMSK(Minimum Shift Keying)だ。これは、中心周波数を基準として、一定の幅(偏位周波数)だけプラス、あるいはマイナスした周波数に対して、それぞれに「0」「1」のビットを割り当てるものだ。伝送能力は、JR東日本の新幹線で使用しているDS-ATCの場合で75ビット(エラー訂正情報を含む)となっている。

福知山線脱線事故の際に話題になったATS-Pも、こうしたシステムの一例である。余談だが、ATS-Pは地上側から車両側に対してさまざまな種類の情報を伝送できるため、地上子ではなくトランスポンダと呼んでいる。

デジタル化と一段ブレーキの関係

単に「進んで良い」「止まれ」というだけでなく、多様な情報の伝送が可能になったことで、信号ごとに段階的に速度を落とすのではなく、一段ブレーキで一気に減速するような制御が可能になった。

これを実現するには、地上側から列車に対して「停止すべき位置」の情報を送る。すると車上側では、自車の減速性能、列車の現在位置、停止すべき位置までの距離などといった情報に基づいて、どの程度の減速度でスピードを落とせばよいかを計算する。その結果を、減速パターンという形で持っておく。基本的には運転士が減速操作を行うのだが、その減速操作が遅れて、列車の速度が減速パターンを上回った場合に、機械が自動的にブレーキをかけて介入するわけだ。

ATS-Pや、デジタルATCと呼ばれる運転保安装置(事業者によってさまざまな名称があり、動作内容にも若干の違いがある)は、こうした動作によって安全を確保している。ATS-Pという名称は、この「パターン制御」からきている。

それを実現したのが、車上に搭載できるような小型で信頼性が高いコンピュータの実現と、そこに必要な情報を伝送するためのデジタル通信技術だったというわけだ。鉄道の世界にATSやATCといったものが持ち込まれた昭和30年代には、こういった仕組みを実現するのは不可能であった。

デジタルATCなど、最近の信号保安装置は段階的な減速ではなく、減速パターンに基づく一段ブレーキを常用する

最後に余談をひとつ

逆に、極めてアナログなシステムとしては、打子式ATSがある。デジタルもヘッタクレもない、それどころか電気信号のやりとりすらない方式だ。

線路脇の信号機が「停止」を現示すると、線路脇に「打子(うちこ)」と呼ばれるハンマーのようなものが起立する仕組みである。列車が停止信号を冒進すると、その打子に対応する位置にある車両側のトリップコックを打子がひっぱたいて、自動的に非常ブレーキを作動させるというシンプルな仕組みだ。もちろん、段階的な減速操作はできないが、少なくとも停止信号の冒進は防げる。

現在ではこの方式を使用している路線はないが、東京メトロ東西線の葛西駅近くにある「地下鉄博物館」で、打子とトリップコックの現物を見ることができる。

執筆者紹介

井上孝司

IT分野から鉄道・航空といった各種交通機関や軍事分野に進出して著述活動を展開中のテクニカルライター。マイクロソフト株式会社を経て1999年春に独立。「戦うコンピュータ2011」(潮書房光人社)のように情報通信技術を切口にする展開に加えて、さまざまな分野の記事を手掛ける。マイナビニュースに加えて「軍事研究」「丸」「Jwings」「エアワールド」「新幹線EX」などに寄稿しているほか、最新刊「現代ミリタリー・ロジスティクス入門」(潮書房光人社)がある。