スマートフォンのアプリは人々の生活を便利にしてくれるものですが、ハイネケンから登場した「The Boring Mode」はその逆で、スマートフォンを不自由なもの、退屈にするという変わったアプリです。ビールメーカーがアプリを作るのならば、サブスク的にお酒を定期購入したり、あるいはバーで使えるセンスあるネタ集、といったものが思い浮かびそうです。しかしThe Boring Modeにはそのような気の利いた機能は一切ありません。
The Boring Modeをインストールしてアプリを起動すると、ハイネケンのブランドカラーでもあるグリーンの背景にドットの粗い黒い文字の表示となります。Boring Mode=退屈モードにすると、画面にはシンプルなアプリアイコンがいくつか並び、その下には10キーが表示されます。およそ今風の外観やUIではありませんが、これこそがスマートフォンを退屈なものにさせてくれるのです。
試しに10キーをタップしても反応しません。つまり電話をかけることすらできないのです。メールアプリもありますが、Gmailとの連携設定もありません。起動すると「新着メールはありません・楽しい時間に戻りましょう」と表示されるだけ。「Sports Check」はサッカーや野球などお気に入りのチームの試合状況を確認できると思いきや、「あなたの応援しているチームはきっと頑張っています・友達のところに戻って今この時間を楽しみましょう」とこれまたつれない表示が行われます。普段、ついつい何気なくスマートフォンをチェックして情報収集しているでしょうが、The Boring Modeを操作すると、「スマートフォンなんて触らないでこの時間を楽しもう」と提案してくれるのです。
The Boring Modeは居酒屋やバーに行って友人たちとお酒などを楽しんでいるときに使うのが最も真価を発揮できそうです。みんなで盛り上がっている最中に「ちょっとまって、仕事のメールが」なんてその場を現実世界に引き戻そうにも、The Boring Modeならメールを見ることもできません。極め付きは「DIY Taxi」。タクシー呼び出しアプリと思いきや、バーテンダーにタクシーをお願いする、と表示されるだけ。楽しい会話をしながらタクシーアプリを起動すると帰りの時間がそわそわしてしまうかもしれませんが、バーテンダーに頼めばこちらの場の雰囲気を察して手配してくれるかも。そしてもちろん、「飲んだら運転しない」自分をほめたくなるでしょう。
一番有用と思われるアプリはカメラですが、こちらも工夫されています。一応写真が撮れるもののプレビューの画像は粗く、撮影された写真も低画質です。The Boring Modeは昔のケータイ風の画面デザインですが、カメラ性能もわざと昔風に落しているわけです。このカメラは逆に今ならエモいと感じる人もいることでしょう。
これらの機能を見てみると、The Boring Modeはスマートフォンに日々支配されている時間から逃れための、デジタルデトックスを考えたアプリのようにも見えます。とはいえ現代世界ではスマートフォンは無くてはならないもの。完全にデジタルとの決別を計るのならば、起動するとただビール瓶だけが表示されるようなミニマルな画面構造にするはずです。しかしThe Boring Modeはデジタルからの脱却や離脱を狙った製品ではありません。
実はハイネケンはThe Boring Modeより前に、その機能を組み込んだ「世界で一番退屈なケータイ」として、「The Boring Phone」を2024年4月にイタリア・ミラノで発表しています。The Boring Phoneは海外で販売されているノキアブランドのケータイのボディーを透明にし、さらにメニュー構成をカスタマイズしてThe Boring Modeのようにほぼ何もできなくした製品です。現時点では販売はされておらず、ハイネケンのイベントなどで配布などが行われているとのこと。
なおThe Boring Phoneは一般的なケータイなので、電話をかけられ、ショートメッセージも使えます。そのため単体で必要最小限のコミュニケーションを取ることができるのです。また本来カラー画面ですがThe Boring Mode同様にあえて緑と黒のモノクロ表示とし、カメラは写真を10枚しか保存できないなど性能を下げています。このミニマルなデザインや機能は海外のZ世代から大きな注目を集めているといいます。
ハイネケンはなぜThe Boring ModeアプリやThe Boring Phoneを開発したのでしょうか。ハイネケン・ジャパンのマーケティングディレクター、須田伸氏に話を伺ったところ、まずどちらの製品も「アンチ・テクノロジー」を目指したものはないとのこと。ハイネケンはむしろデジタルがもたらすコミュニケーションの進化に常に注目している企業だといいます。積極的にデジタル製品を活用する動きの中に、人と人とのつながりをどのように関係づけていくのか、それを考えアプリやケータイを開発したとのことです。
そのためアプリやケータイでハイネケンというブランド価値を高めるというフックをかけたり、あるいはアプリを普及させダウンロード数を増やしたい、という考えも無いとのこと。そのような展開は今の時代、新しさを感じさせないものだと言います。人々がデジタル製品を日々使う中で、その付き合い方に新たな提言を行うことが面白いのではないか、そう考えてThe Boring ModeやThe Boring Phoneは開発されたのです。
たとえば撮影が禁止されていないコンサートなどで、スマートフォンを使って一生懸命ステージを録画をしている人もいます。しかしコンサートが終わって帰宅後に、それを見返すことの無い人も多いと言います。コンサートに集中するのではなく「コンサートを録画すること」に集中してしまっているわけです。お酒の場でも同様に、仲間で集まり楽しい時間を過ごすはずが、スマートフォンがあるだけで他のことに集中してしまうことがあります。The Boring Modeを起動すればデジタルライフのONとOFFを明確にしてくれる効果もあるわけです。
なおThe Boring Phoneはヨーロッパを中心とした海外市場で展開、日本への導入は行われていません。一方、The Boring Modeは日本を含む世界各国で公開が始まっており、ヨーロッパやブラジル、メキシコなどでダウンロードが可能(2024年10月時点)。今後各国に広げていく予定です。The Boring Modeを起動して見せるだけでもちょっとした話題になるでしょうから、少しでも興味を持った人はインストールしてみてはいかがでしょうか。
さて「The Boring」の名前をつけた製品の将来展開について、須田氏は「今後も開発するかもしれないが、それがスマートフォンになるのか、あるいは全く新しいデバイスやアプリになるかは現時点では未定」とのこと。デジタル技術の進化は1年や2年といった短期のスパンで動向を判断するものでもなく、長いスパンで見ていく必要があります。ハイネケンの生み出した製品がどのように受け入れられるのか、製品ごとにそのフィードバックを受けながら次の開発に結び付けていきたいとのことです。
ハイネケンはビールの製造販売を主力とした企業です。しかしビールを販売し販売数を伸ばすことだけを考えてはいません。ビールや飲料を通して人々がコミュニケーションする時間を提供し、そしてコミュニケーションの大切さを提案する、そんな企業を目指していると須田氏は言います。
友人たちとのお酒の場だけではなく、カフェでお茶をするとき、美術館や映画館に一緒に行く時、あるいは天気のいい日に公園でお弁当を広げて食べるときなど、The Boring Modeを起動することでより会話もはずむはずです。スマートフォンであらゆる世界がつながる時代だからこそ、ハイネケンの考える人と人とのつながりは、今後より再認識されるものになるでしょう。