フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


活版の革命児

1939年 (昭和14) 。写真植字機研究所は、東京・芝で進藤重白が経営していた鎌倉印刷に写真植字機を1台出荷した。ここには、写真植字機研究所に1935年 (昭和10) に入所し、満州の興亜印刷局や東京の加藤製版印刷で経験を積んだ二宮猪之助がチーフ、千本木玉造が助手オペレーターとして派遣された。[注1]

当時はまだ、写真植字機を持って民間で商売をしていたのは、大印刷所以外では加藤製版印刷ぐらいで、写真植字自体を知らないひとも多かった。写真植字でおこなわれている仕事は、進藤の目に入る範囲では共同印刷が書籍の奥付や緒言、はしがきなど、活版印刷で制作する書籍の付き物のようなものを写真植字機で組版していた程度だった。やがて、表2 (表紙の裏面) や表3 (裏表紙の裏面) 、表4 (裏表紙) などに入る広告の文面や、写真版のキャプションなどに写真植字が少しずつ使用されるようになっていった。

写真植字機の当時の値段は1台4,000円ほどだったが、鎌倉印刷の進藤は金がなく、全額を一括で支払うことができなかった。そこで3,500円を即金で支払い、残り500円は 1、2カ月待ってほしい、と茂吉に頼んだ。茂吉はしぶしぶ承知したふうだったという。

鎌倉印刷は、写真植字機によってひと月500~600円ほどを売り上げた。しばらくして遊びにきた元東洋印刷の鋳造課長・永田亀吉は、進藤の話を聞いて「これはえらい機械を入れたものだ。活版の革命児だ!」と驚き、他の人たちに話をしてまわった。おもいがけず進藤の仕事の宣伝をしてくれたようなものだった。[注2]

そのほかにもこの年は、陸軍陸地測量部に1台、華中印書局に3台、満州航空に1台、エル・レイボリに2台、昭和製鋼所 (鞍山製鉄所) に1台、そして新民印書館に2台を続々と出荷した記録が残っている。[注3]

もともと年産数台の生産能力だった写真植字機研究所だ。茂吉たちはつぎつぎに入る注文にこたえるため、忙しい日々を送った。

舞いこむ吉報

そんな1939年 (昭和14) の4月、うれしい知らせが写真植字機研究所に舞いこんだ。東京日日新聞・大阪毎日新聞の両社がこの年から創設した「東日・大毎印刷賞」が茂吉に授与されるというのだ。

この賞は、新聞の使命ともっとも密接な関係にある通信ならびに印刷技術の改善工夫に研鑽、貢献してきた人物の功労を表彰するために制定されたもので、同年の印刷名誉賞には内閣印刷局研究所長兼印刷部長・工学博士の矢野道也が選ばれた。また、通信名誉賞に八木秀次 (大阪帝国大学理学部長、工学博士) 、通信賞に松前重義 (逓信省工務局調査課長、工学博士) 、篠原登 (逓信省工務局技師、工学博士) が選出。民間で受賞したのは茂吉のみだった。もちろん、「邦文写真植字機の発明」に対してのことである。とくに今回は、各所で成果を上げつつある写真植字機の状況をふまえ、その独創性と実用性が評価された。

表彰式は5月1日、東京日日新聞社でおこなわれ、茂吉には賞牌と賞金1,000円が授与された。

  • 東日・大毎印刷賞授与式の様子。右端が茂吉、その隣が印刷局の矢野道也 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.41より

    東日・大毎印刷賞授与式の様子。右端が茂吉、その隣が印刷局の矢野道也 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.41より

茂吉はこれまでにも、商工省からの発明奨励金 (1928年) や恩賜発明奨励金 (1931年) などを受けたことがあったが、東京日日新聞社・大阪毎日新聞社のような大新聞が、みずから名乗り出ずとも写真植字機の発明と印刷への貢献を認めてくれたことは、なにものにも代えがたい喜びだった。その喜びを写真植字機研究所員全員と分かちあいたいとかんがえた茂吉は、ひとり10円の臨時ボーナスを支給した。[注4]

邦文写真植字機の開発初期からその過程を追ってきた『印刷雑誌』は、受賞にあたり〈石井学士の写真植字機に払った努力は涙ぐましいという言葉が一番当るであろう〉と記事に書き、今後について〈少し様子の変った書体を使おうとする傾向は今後益々甚だしいと思われるから、時の経過と共にその重要性を増すかも分らない。写真植字機も或は石井さんを苦めて之れに酬いず、後の人のみを幸いするかも分らない。之れが第一回印刷賞の撰に入った所以かとも思う〉と記している。[注5]

圭吉の苦難

明るい知らせがあったいっぽうで、1938年 (昭和13) に国家総動員法が公布されてからの日本は、戦雲急を告げるといった様相だった。国民徴用令、従業員雇入制限令、工場就業時間制限令などが公布され、やがて、米や砂糖、マッチなどの配給制 (1941年) 、供出制度 (1942年) など、国民生活を統制する法令が相次いで公布された。一般企業はガスや電気の使用を制限されて作業の継続もおぼつかなくなり、軍需に結びつかない仕事には資材の供給も止められるようになっていった。青壮年男子は戦場に駆り出され、学生は勤労奉仕に身を費やさなくてはならなかった。

本郷中学五年生になっていた茂吉の三男・圭吉 (当時17歳) も例外ではなく、しばしば軍需工場の荷役に動員された。圭吉は、中学五年間を首席で通すという父ゆずりの秀才だっただけでなく、身体があまり丈夫でないところまで父親似だった。やがて彼は、たび重なる勤労奉仕のために身体をこわし、肋膜炎にかかってしまった。そして1939年 (昭和14) から、姉・千恵子の看病のもと、片瀬 (神奈川県藤沢市) での数年間の転地療養を余儀なくされたのだった。[注6]

(つづく)

※しばらく、毎月第2火曜日の更新となります。
次は12月9日更新予定です。

[注1] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.154

[注2] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.154

[注3] 「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.48-49

[注4] 『東日七十年史』東京日日新聞社ほか、1941 p.301 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1872584/1/177 (参照 2025-05-31)
「東日大毎印刷賞を得た矢野博士、石井学士」p.12 「雑報 大毎、東日の印刷賞決定」pp.58-59
『印刷雑誌』22(4) 昭和14年4月号、印刷雑誌社、1939
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.155
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.39-40

[注5] 「東日大毎印刷賞を得た矢野博士、石井学士」『印刷雑誌』22(4) 昭和14年4月号、印刷雑誌社、1939 p.12

[注6] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.155-156

【おもな参考文献】

『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇念の歩み〉』(写研、1975)
『東日七十年史』東京日日新聞社ほか、1941
「東日大毎印刷賞を得た矢野博士、石井学士」「雑報 大毎、東日の印刷賞決定」『印刷雑誌』22(4) 昭和14年4月号、印刷雑誌社、1939

【資料協力】
株式会社写研、株式会社モリサワ