フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


おもいがけない客人

「石井さん。私は、大阪に行きます」

大正末期の1924年から、ともに邦文写真植字機の開発に取り組んできた盟友・森澤信夫が東京の写真植字機研究所を去ったのは、1933年 (昭和8) 年3月のことだった。石井茂吉は、共同開発者であり工場の製造責任者だった森澤信夫を失った。

1931年 (昭和6) に海軍水路部に写真植字機を納めたあと、注文は途絶えていた。そんななかでも、家族と、十数人の従業員を養っていかなくてはならない。いつ来るともわからない注文に備えて、茂吉は機械の改良や文字盤のための原字制作を粛々と続けていた。毎晩、日付の変わる前に床につくことはなかった。家族が寝静まったあとに、ふと、いくが目を覚ますと、茂吉はまだ仕事をしていたということが何度あったかわからない。[注1]

  • 【茂吉】花ひらく努力

    原字制作に取り組む石井茂吉
    「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.29 より

まだ幼かった三女の裕子 [注2] は、「子どものころは父の顔を見たことがなかった」という。

〈いつも仕事場に入っていて、朝私が学校へ行くときは眠っているし、夜はおそくまで仕事をしていて、話もできませんでした〉〈夕食の時もほとんど別でした。ですから普通のサラリーマンの家庭がうらやましかった。もともと父は無口でしたし、それに仕事がそんな調子でしたから、なんてひどい環境に生まれ育ったのだろうと思ったことたびたびでした〉[注3]

写真植字機の開発に取り組みはじめてから、茂吉はずっとそんなくらしをしていた。印刷界では彼の苦労はなかなか花ひらかなかったが、1931年 (昭和6) に写真植字機研究所に印字部を開設すると、意外なところで写植機が活用されはじめた。映画のサイドタイトル用フィルム製作や、幼年・少年・少女雑誌の本文の植字といった具合だった。

さらに1933年 (昭和8) 晩夏のある日、おもいがけない客人が写真植字機研究所を訪ねてきた。信夫が研究所を去って数カ月後の出来事だ。髪をきれいになでつけ、口ひげをたくわえた、やや恰幅のいい男だった。彼が差し出した名刺には「奉天省 公署印刷局長 関 真」と記されていた。「奉天省」は満州の地名である。

1931年 (昭和6) 9月に満州事変が勃発し、翌1932年、日本の影響下で満州国が建国された。昭和恐慌以来、沈滞していた日本の経済界は、満州国建国にともなう需要を一部の柱として活気づいた。これにともない、多くの日本人が新天地への期待を胸に満州に渡った (その背景には、農村の貧困対策としての国策移民政策や、満蒙開拓団の設立も含まれていた) 。関はその満州で、奉天省公署印刷局の局長をつとめていた。

  • 奉天省公署印刷局長の関 真
    満洲国通信社 編『満洲国現勢』康徳5年版、満洲国通信社、康徳5 (1938) p.286 より

2年半ぶりの注文

奉天省公署印刷局は、満州事変勃発後に創設された。

事変直後から、満州の官営工場はすべて運転を休止した。工場で働いていた職工たちはたちまち職を失い、その日のくらしにも困るありさまだった。当時関東軍嘱託だった関は、そんななかで関東軍の命を受けた。印刷事業関係を復興せよというものだった。

印刷は、占領地において住民の協力を得るために、新聞などの媒体を通じ戦争目的を伝え、人心を安定させる「宣伝・宣撫工作」と密接な関係をもつ。だからとりわけ復興が急がれた。

関は、東北大学印刷工廠、東北交通用品製造廠、東北印刷局、奉天財政廰印刷工廠の4つの印刷所の設備を併合し、これらをすべて交通用品製造印刷工場に集めて、1932年 (昭和7) 3月1日から奉天省公署財政廰印刷局として印刷事業を始めた。当初はおもに関東軍の宣伝用印刷物や省公署公報、印花、税票などを印刷していたが、1933年 (昭和8) 6月1日に財政廰が廃止になり、奉天省公署印刷局と改称された。関はその局長になったのだった。[注4]

出迎えた茂吉に、関は言った。

「私は印刷にはくわしくありませんが、あたらしい職場になにか斬新なものを採り入れたいと思案するなかで、以前『印刷雑誌』で読んだ写真植字機のことを思い出しました。もしも実物があるのであれば、見せていただけませんか」

どうやら関は、写真植字機というものの実物が本当にあるのかさえ半信半疑の様子だった。そこで茂吉は印字部に関を案内し、写植機が実際に使われているところを見せた。

関は感心した様子で、

「これはいい。しかし私は機械や印刷にくわしくありません。後日、くわしい人間をよこすので、もう一度よく見せてやってくれますか。専門家に確認をさせたうえで、注文したい」

こう言い残して帰っていった。

関と入れ替わりに公署印刷局からやってきたのは、福田忠技師 [注5] だ。福田は約3週間をかけて、写植機の詳細をじっくり調べた。彼の出した結論は「実用になる」というものだった。

年が明けて1934年 (昭和9) の1月7日、今度は営業担当の佐々木周一がやってきた。契約のためである。公署印刷局は、一挙に3台の写真植字機を注文してくれた。しかも、前渡し金 3分の1という好条件だった。じつに2年半ぶりの注文である。どれほどうれしかったことだろうか。「よかったね」と見合わせた茂吉といくの顔に、自然と笑みがこぼれた。

ほぐれる不信

写真植字機の値段は、文字盤を含めて3,800円としていた。奉天省公署印刷局は、3台分の注文の前渡し金として、その3分の1である3,800円をすぐに入金してくれた。写真植字機研究所はこれまで10年近くぎりぎりの状況のなかで、いくが奔走しては各所に頭を下げ、借金を重ねながらやりくりしてきた。公署印刷局の注文以外には、相変わらず先のあてもない。写真植字機研究所にとって、それはとても貴重な金だった。

しかし茂吉はそのうち3,000円を、すぐに信夫に送った。大阪で写真植字業をいとなんでいた信夫は、おもな受注先であった大阪毎日新聞の活映部の廃止にともない仕事が途絶え、廃業に追いこまれていた。(本連載 第58回「決裂」参照) 困りはてた信夫は、茂吉に「大阪に持ちかえった写真植字機と映画タイトル専用機を3,000円で引き取ってもらえませんか。それがむずかしければ、借金の保証人になっていただけまいか」と連絡してきていたのだ。[注6]

本来は、借金の返済や、注文品をつくるための資材準備にあてるべき金だった。周囲からは、みずから進んで出ていったひとに、そこまでしてやることはないのではないかとも言われた。それでも茂吉は、信夫の苦境を救うことを優先した。それこそが自分のとるべき道だとおもった。そして「共同発明者には礼を尽くさなければならない」というおもいから、その後も機械を出荷するたびに、特許料の名目で、いくばくかの金を信夫に送った。 信夫は大阪でネジ工場を経営しながらも、写真植字機を忘れたわけではなかった。自分の苦境を救ってくれた茂吉の姿に、うずまいていた不信の感情もほぐれたのか、やがてネジ工場の仕事などで上京すると、茂吉の家に泊まるようになっていた。[注7] [注8]

(つづく)

出版社募集
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雪 朱里 yukiakari.contact@gmail.com

[注1] 「石井氏の写真植字機は大改良さる」『印刷雑誌』17(4) 昭和9年4月号、印刷雑誌社、1934.4 p.11、「写真植字機発明の苦心」『印刷雑誌』17(9) 昭和9年9月号、印刷雑誌社、1934.9 p11

[注2] 石井裕子:いしい・ひろこ (1926-2018) 。石井茂吉・いくの三女。茂吉が1963年に逝去した後、写研の第2代社長をつとめた。

[注3] 対談 写研 取締役社長 石井裕子・日本印刷新聞社 社長 栗原浩「組版ソフト開発に全力 生命は “生きた” 文字作り 写植も電子全盛の時代」『印刷界』No.335 1981年10月号、日本印刷新聞社、p.46

[注4] なお、奉天省公署印刷局は1934年 (昭和9) 8月まで官営で事業を継続していたが、政府の方針により設備一切を従業員に払い下げることとなり、その払い下げを受けて興亜印刷局と改称。1935年 (昭和10) 5月には株式組織に改組し、股份有限公司興亜印刷局に。1938年 (昭和13) 5月には移転、大工場を竣工し、興亜印刷株式会社と改称した。1932年8月以降、奉天省省定教科書の印刷販売を一手に引き受けたのをはじめ、満州国国定教科書の印刷配給も手がけた。
以上、満洲国通信社 編『満洲国現勢』康徳5年版、満洲国通信社、康徳5/昭和13 (1938) p.286 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1208089 (参照 2025-01-25)、満洲国通信社 編『満洲国現勢』康徳3年版、満洲国通信社、康徳3/昭和11 (1936) p.435

[注5] 福田技師の名前は、以下を参照。
本間一郎 著ほか『東京プロセス製版工業史』東京プロセス工業協同組合、1974 p.190 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11955230 (参照 2025-01-26)

[注6] 本連載第58回「決裂」 https://news.mynavi.jp/article/syasyokuki-58/ 参照

[注7] 本連載第60回「ネジ工場ふたたび」 https://news.mynavi.jp/article/syasyokuki-60/ 参照

[注8] 本稿は、『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 pp.125-141、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 pp.28-31 ををもとに、周辺資料を交えて参照し、執筆した

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
「石井氏の写真植字機は大改良さる」『印刷雑誌』17(4) 昭和9年4月号、印刷雑誌社、1934.4
「写真植字機発明の苦心」『印刷雑誌』17(9) 昭和9年9月号、印刷雑誌社、1934.9
対談 写研 取締役社長 石井裕子・日本印刷新聞社 社長 栗原浩「組版ソフト開発に全力 生命は “生きた” 文字作り 写植も電子全盛の時代」『印刷界』No.335 1981年10月号、日本印刷新聞社
満洲国通信社 編『満洲国現勢』康徳5年版、満洲国通信社、康徳5/昭和13 (1938)
満洲国通信社 編『満洲国現勢』康徳3年版、満洲国通信社、康徳3/昭和11 (1936)
本間一郎 著ほか『東京プロセス製版工業史』東京プロセス工業協同組合、1974

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影