大統領選に向けて経済活動再開を急ぐトランプ大統領、その影響で収束しない新型コロナウイルス、Black Lives Matter運動の拡大と、荒れに荒れる米国で新たに「セクション230」という新たな対立の火種がくすぶり始めた。

セクション230は、1996年に制定されたCommunications Decency Act第230条。インタラクティブなコンピュータサービスを通じて提供される第三者のコンテンツに対して、サービスに与えられる免責事項の規定だ。例えば、レストラン/小売店の口コミサイトYelpに事実に反してレストランを中傷するようなレビューが投稿されたら、レストラン側はレビューを投稿した人を訴えられる。だが、投稿を掲載したYelpの法的責任は問われない。このセクション230によって訴訟のリスクが抑えられたから、2000年代以降にGoogle、YouTube、Facebook、Twitterといったオンラインプラットフォームが急成長できた側面がある。その見直しに着手していた司法省が改定提案を公表した。

セクション230については、昨年後半あたりから修正すべきという意見が目立つようになっていた。それが5月末に勃発したトランプ大統領とTwitterの対立で一気に加速した。ミネアポリスで暴徒化したデモに強権発動をちらつかせたトランプ大統領のツイートに対して、Twitterが暴力を賛美するツイートであるとして表示を制限。それに不満を持った大統領が、ソーシャルメディアプラットフォームの免責を制限することを目的とした大統領令に署名した。

トランプ氏 VS Twitterからだと、セクション230問題は、誤解を招く投稿やフェイクの修正に努めるソーシャルメディアに、自由過ぎる言論を武器にするトランプ氏が噛みついている構図である。しかし、今年の初めの時点に時間を戻すとセクション230を巡るストーリーは異なる。その頃に修正を強く求めていたのはトランプ氏ではなく、今年の大統領選で同氏と対決するジョー・バイデン前副大統領だった。

バイデン氏は、虚偽の政治広告や投稿が横行するフェイク問題対策としてセクション230の修正が必要であるとしている。Facebookのようなソーシャルメディアに事実と異なるような政治広告が掲載されたり、投稿があったとしてもソーシャルメディアの法的な責任は問われない。虚偽対策よりプラットフォームにおける活発なコミュニケーションが優先され、事態がどんどん悪化する傾向が見られたことを問題視している。

つまり、どちらもセクション230修正の必要性を呼びかけているが、一方はプラットフォームによるチェックが言論の自由に及ぼす影響を指摘し、もう一方はプラットフォームがフェイクをチェックせずに見過ごす問題を指摘しているという真逆の主張。セクション230の修正は、大統領選の行方、そしてネットの将来に大きく影響する問題になっている。

プラットフォームに中立性を求める危うさ

そもそもセクション230がなぜ設けられたかというと、1995年に証券会社Stratton Oakmontが詐欺を働いていたと中傷するような書き込みが掲示板で行われたのに対して、Strattonが掲示板を運営するISPのProdigyを名誉毀損で訴えた訴訟に端を発する。ライバルのCompuserveがどのような書き込みも削除しなかったのに対して、Prodigyは掲示板の管理に努めていた。皮肉なことに、Prodigyがモデレーションしていたことで詐欺的な書き込みを見過ごした責任を裁判で問われる結果になった。

Stratton Oakmont対Prodigyのようなケースが続けば、Webサイト側が管理を放棄し、過激なコンテンツがはびこることになってしまう。それはWebとWebユーザーの将来にとって望ましいことではないとしてロン・ワイデン上院議員らが対策案を起草し、セクション230が作られた。

セクション230の骨子の1つは、前述の第3者が投稿したコンテンツに対してオンラインサービスに与えられる免責。そしてオンラインサービスまたはそのユーザーが、わいせつ、過度に暴力的、誹謗中傷、または有害であると判断するコンテンツをサービスが削除することについても免責を認めている。

セクション230による保護によって、過去20年の間にユーザー生成型コンテンツを伝えるWebサービスやソーシャルメディアが次々に登場した。ただし、見方を変えると、セクション230に保護されたプラットフォームは、連邦法の範囲なら載せたいコンテンツを載せられ、またホストしたくないものまでホストする義務を負わずに済む。そんな自由を享受したプラットフォームが巨大化し、良くも悪くも現実社会に大きな影響力を及ぼし始め、プラットフォームが社会的責任を適切に果たしていないことへの不満が噴出するようになった。

Facebookのマーク・ザッカバーグCEOが上院公聴会に出席した際に、テッド・クルーズ上院議員が「Facebookは自身を中立的な公的フォーラムだと考えているか?」と尋ねた。それに対してザッカバーグ氏は「あらゆるアイディアのためのプラットフォーム」と答えた。

クルーズ議員は、プラットフォームが中立の立場を保ってこそセクション230が機能すると主張している。虚偽が疑われるコンテンツを含めて削除は行わないFacebookが批判される現状で、そう主張されると「そうかもしれない」と思わずうなずいてしまいそうになる。

だが、プラットフォームが中立を強いられるようになれば、偏っているという理由で連邦法に反しない真っ当な意見が消される可能性がある。民主党寄りの人達が集まるサイトは、発信する情報が虚偽でなくとも、共和党寄りの人達から見たら偏ったサイトである。また、ジョシュ・ホーリー上院議員が提案する法案では、オンラインプラットフォームに対してサービス規約の中で「誠実なサービス」であることを宣誓するように求めている。どのような理由であれ、不誠実と見なされたら訴訟の対象になり得るのだ。

セクション230の改定は、セクション230に基づいた修正として進められている。そうであるなら、修正のアプローチは全く異なる。セクション230は中立性や誠実さを求めた規定ではなく、法に反したり、有害にならない範囲で、偏った意見でもオンラインで発言して伝えられる自由を認める規定だった。だが、有害にならない範囲にとどめる仕組みが乏しく、現状では自由が悪い方向に作用している面が目立つ。修正は待ったなしの状態だが、セクション230が設けられた際の基本的概念は今も有効であるはずだ。それに基づいた修正でネットの未来を切り開けるか、場合によっては1996年以前に逆戻りする可能性もある。