前回の記事で、「シミュレーションでできることと、できないこと」なんていう小見出しをつけた。ところが技術の進歩というのはおそろしいもので、「そんなのシミュレートできるの?」と思っていたような分野のシミュレータができてしまう御時世である。

死人役は帽子を逆に

第二次世界大戦中のこと。某国の某戦艦で、戦闘被害を想定した対処・復旧の訓練をやっていた。そこで設定したシナリオ(状況)のひとつに「舵機室に直撃弾」というのがあったそうである。

舵機室とは、艦の旋回を司る舵を動かす機械、つまり舵機が収まっている部屋のこと。ここに直撃弾があって舵機を動かせなくなれば、艦は行動の自由を喪失して厄介なことになる。だから当然、舵機室被弾を想定した復旧訓練が必要だ。

その訓練の席で、上官が「よーし、みんな横になれ。ただし、帽子は逆に被っておくように。そうすれば全員死体の扱いを受けるからな」といって「死体役」をゴソッと用意して、より訓練に迫真性を持たせる工夫(?)をしたらしい。なんだか、半分は悪乗りみたいなところもありそうだが。

実は舵機室云々はどうでもよくて、この「死体役」というところが重要だ。シミュレータ技術なんて端緒についたばかりの時代で、リアルなシミュレーション訓練なんて絵空事以前の段階だったから、生身の人間が代役を務めたわけだ。

実は現代でも、生身の人間が代役を務める場面は案外とある。たとえば、「救難ヘリコプターが撃墜された友軍機のパイロットを救出する訓練」をやるために、「撃墜された友軍機のパイロット役」を用意して現場に放り出す。そこにヘリが飛んでいって、実任務と同様に救出して、さらに応急処置まで施す。

ところが、なにせ揺れるヘリの上でのことだから、注射や点滴のために針を刺そうとすると、一発で刺さらなくて何回もやり直し、なんていうことがあるらしい。するとたまらないのは、何も悪いところはないのに腕に針を何回もブスブスやられる「撃墜された友軍機のパイロット役」である。

そこで想定状況が「洋上救難」なんていうことになれば、その前段階として海の上に放り出されてプカプカ浮いていなければならないのだから、ますます大変だ。おっと、閑話休題。

陸の上でも似たような話がある。交戦で負傷者が発生した場面を想定、その負傷者を救出・搬送して衛生兵が応急処置を施す訓練というのがある。

そこで迫真性を持たせるために、「負傷兵役」の兵士に、怪我したときと似たようなメーキャップを施して、いかにも本当に怪我をしているかのように見せることがある。

単に負傷者を運び出す訓練だけならマネキンでも用が足りそうだし、怪我の治療について訓練するだけなら病院でもできる(といっても、戦場で多く発生する銃弾・弾片・爆風などに起因する怪我を市中の病院で体験するのは、まっとうな先進国ではあまり簡単ではないが)。

しかし、戦場で弾が飛び交っている中、負傷者を救出して応急手当を施す訓練という話になると、個々のパーツだけでは足りない。やはり、演習場でリアルな状況を再現する必要があり、そうなると「負傷者役」が必要になる道理である。そこで、怪我をしているのと同じようにメークを施す方がリアリティが出る。

なんと負傷者シミュレータが登場!

なんて思っていたら、「International Defence Review」誌の2014年5月号に、「負傷者シミュレータ」の話が載っていたので仰天した。製作したのは、航空機の搭乗員訓練に使うフライト・シミュレータの大手・カナダのCAE社で、米陸軍との共同開発である。

製品名は「Caesar Trauma Patient Simulator」という。外見は生身の人間そっくりにできていて、「身長」は1.9m、「体重」は68kg。バッテリ駆動なので、野戦環境下に持ち込んで作動させることができる(これ重要)。そこに、添付のタブレットPCでさまざまな「状況」を設定する。それを相手にして衛生兵が応急処置の訓練をするわけだ。

CAE「Caesar Trauma Patient Simulator」製品ページから

「Caesar Trauma Patient Simulator」がすごいのは、単に負傷者役のマネキンというわけではなく、たとえば上半身・腹部・両腕・両脚の合計6ヶ所に「出血再現用の穴」が設けられていて、内部のタンクから「血液」を送り出せるようになっていること。つまり流血と止血のシミュレートができる。このほか、手足の切断、銃創、弾片による負傷、顔面の負傷などをシミュレートして、応急処置の訓練を行えるようになっている。

戦場に出る衛生兵を訓練するためのものだから、ありとあらゆる怪我・疾病を再現する必要はなく、戦場で遭遇する可能性が高い負傷について再現できれば、目的は達せられる。とはいっても、それをリアルに再現するのは簡単ではないだろう。

それにしても、まさか負傷者をシミュレートする訓練機材が現れようとは想像だにしなかった。事実は想像より奇なり、である。

ただ、こうした機材を使って衛生兵に実戦的な訓練を施したり、医療関連機材を改良したり、ヘリコプターによる後送体制を整えたりしたことが、アフガニスタンで負傷者の死亡率を抑制する効果につながっているのは事実であるようだ。

今回取り上げた「Caesar Trauma Patient Simulator」は、CAEの公式動画(YouTube)で見ることができる。ただし、非常にリアルなのでグロ注意。

執筆者紹介

井上孝司

IT分野から鉄道・航空といった各種交通機関や軍事分野に進出して著述活動を展開中のテクニカルライター。マイクロソフト株式会社を経て1999年春に独立。「戦うコンピュータ2011」(潮書房光人社)のように情報通信技術を切口にする展開に加えて、さまざまな分野の記事を手掛ける。マイナビニュースに加えて「軍事研究」「丸」「Jwings」「エアワールド」「新幹線EX」などに寄稿しているほか、最新刊「現代ミリタリー・ロジスティクス入門」(潮書房光人社)がある。