フェンシングという日本ではなじみの薄い競技に一躍スポットライトが当たったのは、2012年ロンドンオリンピック、男子フルーレ団体での銀メダル獲得だった。メダル獲得のシーンは、いまでも多くの日本人の脳裏に焼き付いているだろう。

2008年北京オリンピックで初のメダル獲得となった男子フルーレ個人、太田雄貴選手の銀メダルに続き、2大会連続のメダル獲得を果たしたフェンシング日本代表は、次のリオデジャネイロ・オリンピックでもメダル獲得が有望な競技だ。この華々しい成果を支える支援の1つに、iPhone/iPadを活用した映像分析があることをご存知だっただろうか。

リオ五輪に向けて練習に取り組む千田健太選手(右)とオレグ・マツェイチュク コーチ(左)

ロンドン五輪の準々決勝で中国に完勝した戦術とは?

独立行政法人 日本スポーツ振興センター マルチサーポート事業 パフォーマンス分析(フェンシング) 千葉洋平氏

「日本フェンシング協会から映像によるサポートを依頼されたのは2009年でした。試合の映像から選手の攻撃パターンや技術的特徴などを分析し、技術向上に役立てるのが私の仕事です」と語るのは、日本スポーツ振興センター マルチサポート事業の千葉洋平氏だ。

文部科学省は平成20年度から、オリンピックでのメダル獲得を後押しするため、チーム「ニッポン」マルチサポート事業を展開している。そのターゲット競技に選定された日本フェンシング協会へ、映像分析の支援を提供するのが千葉氏のミッションだ。

日本代表選手や海外の一流選手の試合をビデオで録画し、特定の映像部分(得点・失点シーンなど)を検索・抽出できるように、特別なソフトウェアを利用して編集する。さらに、どのポジションからどんな攻撃を何回行ったかなどの数値化されたデータも付加し、選手・コーチにフィードバックしている。

千葉氏の地道な映像+分析データの蓄積は、ロンドン・オリンピックで大きな成果として実を結んだ。千田選手の活躍で強敵中国を下した準々決勝の試合について、日本代表コーチのオレグ・マツェイチュク氏は次のように振り返る。

日本フェンシング協会 男子フルーレ統括コーチ オレグ・マツェイチュク氏

「日本の選手はそれまで中国選手には苦戦していました。そこで千葉さんに『中国に勝てるデータをまとめて』と頼んだのです。特に注文したのは、1つだけテーマを絞って欲しいということでした」(オレグ・コーチ)

「中国戦の過去映像を集めて分析したところ、日本選手の失点の何と75%がアタックと呼ばれる攻撃によるものだと分かったのです。さっそく、その失点シーンだけを集めた映像データを作成してチームに配信しました」(千葉氏)

この映像を得た日本代表チームは、中国チームの攻撃パターンを分析すると同時に、相手の意表を突くような先制攻撃の作戦を用意して試合に臨んだところ、「面白いように攻撃が決まりました」と千田選手。第4セット、千田選手の一気に10得点をあげる活躍で追いすがる中国を突き放してベスト4入りを決めた。勢いに乗った日本チームは、準決勝でもドイツを破って団体戦で初となる銀メダルを獲得したのである。

iPadの映像を見ながら戦術を練るフェンシング日本代表 千田健太選手

映像データの分析は、千田選手にとって不可欠な必勝レシピ

iPadに配信される試合映像は、試合前の短い時間でも対戦相手の特徴を分析できるように必要な部分だけを選んで再生可能だ。

「相手の技や特徴を知らずに試合に臨むと、相手の攻撃を受けてみて初めて戦法を知ることになりますが、事前に映像を見ておけばそうした無駄な失点をせずに済みます。トーナメントでは予想外の選手が勝ち上がってくることもあります。そんな時でも、短時間で相手を研究できるのは、iPadの大きなメリットです。特に重要な試合では、自分の感覚だけに頼った"ぶっつけ本番"的な戦い方はしたくないので、iPadでの映像確認は欠かせません」と千田選手は打ち明ける。

"戦うチェス"と称されるフェンシングでは頭脳戦、心理戦が大きなウェイトを占める。わざと隙を見せて相手を誘って反撃したり、相手の騙しに引っかかったふりをして油断させるなど、相手の裏をかく駆け引きが盛んに交わされるという。だから、相手の本筋の攻撃が、どのラインを通って、どこを狙ってくるのかを映像イメージとして頭に刻み込むことで、確実に勝率が上がっていると千田選手は断言する。

日本代表チームの練習風景

「ロンドン・オリンピックで銀メダルを取れた要因の1つが、iPadでの映像研究だったと思います。今では、相手の映像を見ないで試合に臨むことは考えられません。iPadは自分にとってなくてはならないツールです」(千田選手)

日本はIT技術のスポーツ利用における先進国

ロンドン・オリンピックの期間中、フェンシング日本代表チームはiPhone/iPadから常に対戦相手の映像を分析して試合に臨んでいたが、こうしたIT技術による分析・戦術立案は、諸外国にはない日本チームの大きなアドバンテージだったという。

「海外のフェンシング選手は感覚でプレーする人が多い。iPhoneやiPadを持っている選手もいますが、個人で趣味的に使っているだけ。試合データや映像を分析するシステムを作り、科学的アプローチを取っているのは日本チームだけです」(オレグ・コーチ)

映像+分析データはファイル容量が大きいので個別にDVDなどで配付するのは非効率だ。そこでiPhone/iPadといったスマートデバイスからネットワーク経由でファイル閲覧できるクラウド型のコンテンツ管理ソフト「Handbook」を使って共有されている。

競技映像をクラウドで配信するアイディアは、プロ野球ソフトバンクホークスの取り組みを参考にしたと千葉氏は語る。同球団では孫オーナーの発案で、2009年からiPhone、iPadを選手・球団スタッフ全員へ配付し、試合映像をいつでもどこからでも閲覧できる環境を整備して、技術向上や戦術立案に役立てている(「ソフトバンクホークスが対戦相手をiPadで分析(動画付)」。こうしたノウハウを持つソフトバンクから、映像や分析データをクラウドで共有する仕組みとしてHandbookの紹介を受けたという。

Handbookに分類された選手ごとのフォルダ(左)、それを開いて映像ファイルをタップすればすぐに試合映像が再生される

多くの競技団体でも、従来から試合映像を録画して分析する取り組みは行われてきたが、「まるごと1試合分の映像だと、時間のあるときにしか見られません。しかも、見たいシーンを自分で早送り/巻き戻しで見つけるのは非効率でした。また、クラウドで配信する仕組みがなければ、映像を再生できる環境が限定されてしまい、選手・コーチの迅速な意思決定は望めません」(千葉氏)

分析データについても、指導者が「おまえは○○のミスが多いぞ」と感覚に頼って言うよりも、「どの試合で○○のミスを何回した」と客観的な数値を示して会話する方がより選手に納得感が生まれる。

「私は客観的な視点を重視して選手にアドバイスするよう心掛けています。プロスポーツではIT技術を使ったデータ解析は当たり前になっていますが、フェンシングに関していえば、試合データを蓄積してきちんと分析している日本チームは世界でも先端を行っています」(オレグ・コーチ)

リオデジャネイロ・オリンピックに向けた今後の取り組み

ソチ冬季オリンピックおよびリオデジャネイロオリンピックでのメダル獲得に向けて、マルチサポート事業は引き続き支援活動を展開している。フェンシングのフルーレ男子も引き続きターゲット競技に指定されているので、千葉氏による映像分析サポートは継続される。ところで、ほかの競技でもiPhone/iPadといったスマートデバイスの活用は進んでいるのだろうか。

「日本のオリンピック競技では、女子バレーボールのデータ解析技術が最も進んでいるといわれています。みなさんも、眞鍋監督が試合中にiPadを片手に指示を出している姿を目にしたことがあると思いますが、データやデバイスの活用法や理解力が非常に成熟しています。私も女子バレーボールチームのアナリストさんと情報共有の機会を持って、いろいろと教えを受けています」(千葉氏)

今後の課題として千葉氏が取り組んでいるのは、他競技用に開発された優れた映像解析ソフトをクラウド化することだという。「映像を見たいと思った時にいつでもどこでも、すぐに見られるような環境を作ることが大切なのだと、これまでの経験で学びました」と千葉氏は語る。

マルチサポート事業の取り組みは対象競技によってさまざまで、競技団体同士のノウハウ共有もまだ十分に進んでいないと千葉氏は指摘する。各競技団体で培ったノウハウをIT技術を使って多くの競技で共有できれば、メダルの獲得数は飛躍的に伸びるだろう。

「もっと競技の種類を超えて、IT技術を使ったノウハウを共有できる環境を作りたいと思っています」(千葉氏)