橋本和夫さんは1959年(昭和34)6月に写研に入社し、写研創業者の石井茂吉氏没後1963年(昭和38)から1995年(平成7)まで、写研で開発したほとんどの書体の監修をつとめてきた。そのあいだ、書体以外にもさまざまな「文字を書く」仕事を行ったという。
毛筆で書く仕事
「たとえば、賞状です。写研では、その年に功績のあった社員を各部門から1名ほどずつ『写研賞』として表彰していました。人によって功績の内容が違うので、文章も全部異なります。その賞状を、ぼくは毎年書いていました」
「それから、会社として行うおもなイベント開催のときに、得意先に送る招待状の宛名書き。それも毎回、ぼくが毛筆で書いていました」
招待状の文面は写植で印字したものだったが、封筒の宛名は1枚1枚すべて、橋本さんの手書きだった。
「もうひとつ、看板の原字もぼくが描いたんですよ。写研は文字を扱う会社ですから、原字も自社で作成しました。本社と、埼玉工場に掲げられた看板です」
看板の文字まで。
埼玉県・和光市駅と成増駅をむすぶ道を歩いていると、白地に青い文字で「写研」と取りつけられたおおきな看板が見えてくる。その看板の原字を、橋本さんが描いたというのだ。
巨大な文字のデザイン調整
写研 埼玉工場は第一工場が1963年(昭和38)に竣工され、その後、第二工場が1965年(昭和40)に竣工された。1970年(昭和45)には第二工場の増築工事が行われ、地下1階・地上5階となって、作業面積がそれまでの1.5倍となった。このときの写真が写研の機関誌『写研19』(*1)に掲載されている。見ると、第二工場の看板は当時、スタンダードなゴシック体でデザインされたものだった。
写研は1972年(昭和47)、「写真植字機研究所」から「写研」へと社名変更をした。東京の本社ビルもこの年に竣工している。社名変更にともない、写研社内で社名ロゴのデザインが決められた。そして橋本さんは、本社ビル、埼玉工場の看板をあらたに制作するに際して、両方の原字制作にたずさわった。
看板には、立体的にカットされた金属製の文字が取りつけられているが、その原字は紙だった。
「原字は紙に描くんです。原字は看板と同寸で制作するため、アウトラインを描いたものを撮影して、原寸大に引き伸ばして出力する。ただしその状態では、大きすぎて判断がつきません。そこで修正係の人に1階までおりてもらって、地面に出力紙を置いてもらいました。ぼくは5階建てのビルの屋上からそれを見て、『わかんむりの横線をもっと太く』などのように大声で伝えた。するとぼくの言葉どおりに、修正係が赤字を描き入れてくれるという具合でした。原寸大で文字の全体を見ないと、バランスが判断できませんから」
この原字をもとにつくられたのが、いま写研 本社ビルと埼玉工場に掲げられている看板なのだ。
「この社名ロゴの書体を、のちにナール・ゴナの中村征宏さんに写植用書体としてつくっていただきました」
「ファン蘭」である。
(つづく)
注)
*1: 『写研19』(写真植字機研究所)1970年5月20日発行 P.35
話し手 プロフィール
橋本和夫(はしもと・かずお)
書体設計士。イワタ顧問。1935年2月、大阪生まれ。1954年6月、活字製造販売会社・モトヤに入社。太佐源三氏のもと、ベントン彫刻機用の原字制作にたずさわる。1959年5月、写真植字機の大手メーカー・写研に入社。創業者・石井茂吉氏監修のもと、石井宋朝体の原字を制作。1963年に石井氏が亡くなった後は同社文字部のチーフとして、1990年代まで写研で制作発売されたほとんどすべての書体の監修にあたる。1995年8月、写研を退職。フリーランス期間を経て、1998年頃よりフォントメーカー・イワタにおいてデジタルフォントの書体監修・デザインにたずさわるようになり、同社顧問に。現在に至る。
著者 プロフィール
雪 朱里(ゆき・あかり)
ライター、編集者。1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか多数。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。
■本連載は隔週掲載です。