2022年公開の映画として大ヒットを記録した、新海誠作品『すずめの戸締まり』。同作品の制作には多くの企業とクリエイターが関わり、連携しながら制作を行っていった。そんな『すずめの戸締まり』の制作を支えたインフラと作業環境の詳細が、アニメ業界フォーラム「ACTF2023 in TAAF」(3月11日、12日開催)にて公開された。
ここでは、『すずめの戸締まり』の制作を手がけたコミックス・ウェーブ・フィルム システム管理担当の都川眞栄氏によるセッションをレポートする。
『天気の子』の反省を生かした体制構築
コミックス・ウェーブ・フィルムはアニメーション映画の制作や作家マネジメント、劇場配給、パッケージ販売、海外セールスまで一気通貫で行う企業だ。
新海誠氏は所属作家のひとりで、その全作品を取り扱う。メガヒット作品『君の名は。』や『天気の子』、そして直近の『すずめの戸締まり』に至るまで、多くの作品に制作として関わっている。
新海誠作品は、多くの企業やクリエイターが関わる大規模プロジェクト。当然、作品制作を支えるインフラやデータの取り扱いについても細心の注意を払う必要がある。
都川氏によると、『すずめの戸締まり』の制作では、前作『天気の子』で起きたトラブルへの対処法が反映されたという。
たとえば、ストレージ問題だ。『天気の子』では作品のデータを様々なストレージに分散して管理していた。そのため、データ管理が属人化して現場が混乱する場面があったそうだ。
また、接続数が想定を超え、転送速度に問題が発生したり、データ容量が一杯になってしまいストレージを増設する羽目になったりといったトラブルにも見舞われた。
「こうした過去の反省を生かして、『すずめの戸締まり』ではメインストレージ1台にデータを集約することにしました」(都川氏)
しかし、集約するとなると、今度は別の課題が発生。具体的には、作品制作で必要な合計データ容量や同接ユーザー数がわからないこと。そして、高速な転送速度をどのようにして確保すればいいのかということ。さらには、バックアップをどこに持てばいいのかといったことが課題に挙がった。
試行錯誤の結果、最終的にメインストレージに選んだのは、AWSのクラウドストレージだった。ただ、データ容量や速度などは満足いくものだったが、どうしても物理的な距離によるレイテンシが課題となる。実際に現場では、小さなファイルを大量にやりとりする際、速度低下が気になるケースも発生していた。
そこでレイテンシ対策として、都川氏は社内にFlexCacheを設置。通常の作業におけるデータアクセスはFlexCacheを使用し、AWSにはバックグラウンドでデータを同期する二段構えで臨むことにした。
この構成であれば、ユーザーもクラウドストレージにアクセスしている意識をほとんど持たずに作業できるという。
CGのレンダリングにクラウドレンダーファームを活用
続いてはレンダリング環境だ。
『天気の子』では3dxMAX、After Effects、Houdiniといったツールが使用され、それぞれ別々のディスパッチャを用いてレンダリング管理を行っていた。このとき課題になったのが、多数のオンプレミス(自社保有)レンダリングサーバの運用による、スタジオ内の電源の量と熱だった。
原因は、ソフトごとにディスパッチャを分割して運用したこと。ディスパッチャごとにエラー確認が必要となり、トラブル対応の煩雑化を招く原因にもなった。
「そこで、『すずめの戸締まり』ではディスパッチャをAWS Thinkbox Deadlineに統一して運用することを目指しました。そのなかで、社内のレンダーファーム、さらにAWSのクラウドレンダーファームも検討しました」(都川氏)
レンダーファームとは、コンピュータをレンダリング専用に接続して構築するマシン群のこと。社内で用意するオンプレレンダーファームに加えて、最近ではクラウドでレンダリング可能なレンダーファームサービスも一般的になっている。
検討の結果、After Effectsのプラグインに台数制限があったこと、またレンダリングに必要となる性能が高すぎたことから、撮影部ではオンプレミス型のレンダーファームのみを使った。
一方、CG部ではGPUをあまり必要としないレンダリングがほとんどだったことから、オンプレミスのレンダーファームとクラウド型レンダーファームを使い分けて作業を行った。
このクラウドレンダーファームでは、ユーザーがjobを投げるだけでAWS Thinkbox deadlineが自動で処理してくれるため、ユーザーからはオンプレミスと変わらない感覚で使えるメリットがあったという。また、メンテナンスについても、操作感が普通のPCと変わらなかったため、それほど大変ではなかったとのことだ。
次にデータの取り回しだが、撮影部内のデータとタスク管理に特化したシステムをクリップ&バイソン社が開発。そのツールの副産物として作られたビューワーについても、コミックス・ウェーブ・フィルムのスタジオの全部署で使用するなど大きな役割を果たした。
データ管理の流れは次の通りだ。まず、レンダリングしたファイルにOKが出たら、そのデータをパブリッシャにドラッグ&ドロップ。すると、このパブリッシュを起点として、スプレッドシートで管理している帳票が更新され、Slackにも納品連絡が入る。
また、Slackでは制作から素材アップの連絡があれば、作業者に自動で連絡が入ったり、必要なデータを必要箇所にコピーすると各種ビューワーも自動で更新されたりするなど、なるべく作業者が手を止めなくていいようなシステムが構築された。
動画や修正にiPad Proを使った事例も
都川氏からは、『すずめの戸締まり』で使用された機材についても紹介があった。
まず、PCについてはアクティブディレクトリを入れる関係からWindows 10 Proを選択。CPUはCore i7またはi9で、メモリは32GB~128GB。もっとも重要ともいえるGPUはRTX2070Tiを搭載した。
メインモニタはEIZOのCS2731で、サブモニタはEIZOのFlexScan2431。色に関してはIMAGICA社によるカラーマネージメントコンサルティングをクラウド上で実施していた。
板型のペンタブレット(ペンタブ)はWacomのIntuos Pro。作業者の好みにより、MサイズとLサイズを選んでいる。液晶ペンタブレット(液タブ)については、基本的にCintiq Proの16インチモデルを使っている。
このほか、スキャナはEPSONのDS-G20000とCANONのDR-G1130、セルシスのクイックチェッカーとOpen Toonzペンシルテストを併用し、クイックチェッカー用のカメラはHOZANのUSBカメラとミスミのCCTVレンズ8mm F1.4を使用しているとのことだ。
動画作業についてはPC+液タブといったスタンダードな構成のほかにも、iPad Pro+Apple Pencilを活用した人もいたそうだ。
ソフトはPCの場合セルシスのRETAS STUDIO、iPadの場合CLIP STUDIO EXを、主に動画や動画検査、ペイント後のデータ修正に使用している。
Apple Pencilの純正のペン先はそのままだとやや太いため、より細いエレコムのペン先を装着しているのがポイントだ。何より「デスクトップPCと違って、iPadは持ち運びが簡単」(都川氏)であることがメリットだと語った。
ただ、iPadにも弱点はある。
「iPadはソーシャルな目的のデバイスということもあり、ファイルの転送が苦手で、ネットワークへの転送ができなかったり、クラウドストレージにうまくアクセスできなかったりします。そこで、PCへのデータ転送についてはFileBrowserというアプリを使用しています」(都川氏)
講演では、業界関係者への知見の共有を目的に、iPadを活用した実際のデータ修正作業の様子が動画で紹介された。
なかでも注目したいのが、線の色をレイヤーごとに細かく分けること。たとえば、原画が赤、色トレスが青なら、かぶせは実線を茶色、赤は朱-鮮、青は空-鮮と黄緑を使うなど、自分が作業しやすいように複数の色を使い分けるのだという。
都川氏によると、『すずめの戸締まり』は前作『天気の子』と比べて、データ量が1.6倍、ファイル数は2.2倍にも上っていた。おそらく、今後の作品ではさらにデータ量が増えていくことだろう。
増大し続けるデータを処理するには、制作環境を絶えず進化させていかなければならない。それは、他のアニメ作品にも同じことがいえるはずだ。今回語られた『すずめの戸締まり』の制作環境が、アニメ業界にとっても1つのベンチマークになるのではないだろうか。