ゼンハイザーがおよそ3年半ぶりとなる最上位イヤホン「IE 900」を6月1日に発売する。オーディオ愛好家向けに「一切妥協なく仕上げた」という新製品を発売に先がけて短時間ながら試用できたので、そのインプレッションをお届けする。

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    IE 900

アルミブロックから削り出して表面に細かな溝を刻んだ、メタリックな質感が目を惹くIE 900。基本的なカタチはゼンハイザーが1月に発売したカナル型イヤホン「IE 300」とよく似ている。これまで同社のイヤホンの頂点に長らく君臨し、IE 900の製品発表の中でも言及されていたセラミック製の「IE 800S」(実売114,820円前後)とはまったく違う雰囲気で、好みは分かれるかもしれない。ちなみに、IE 900の発売に伴ってIE 800Sは販売終了となる。

ゼンハイザーの説明によれば、IE 900の見た目は「(同社が)やりたい音から逆算してこういったデザインにたどり着いた」のだそうで、そこには後述する音響構造(レゾネーターチャンバー)を内部に組み込むことなども含まれる。外側に刻んだ溝には、使い込んでいくうちに傷や汚れが目立ってしまうのを避けるという、実用的な利点もあるそうだ。オーディオ的に見れば、IE 900のデザインはアナログレコードの表面とか、音の波紋を意識したようにも見て取れる(筆者は最初、地形図の等高線っぽい……などと無粋なことを考えてしまった)。

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    アルミブロックから削り出して表面に細かな溝を刻んだ、メタリックな質感

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    従来の最上位イヤホン「IE 800S」。IE 900とはデザインがまったく異なる

製品の詳細や仕様については既にニュース記事で触れているので、そちらを参照して欲しい。今回、約1日程度の時間をかけてエージングしたIE 900を、手持ちのiBasso Audioのポータブルオーディオプレーヤー「DX160 ver.2020」(実売42,900円前後)に4.4mmバランスケーブルでつなぎ、ハイレゾ音源などさまざまなジャンルの楽曲を選んで実機のサウンドを確かめてみた(IE 900の価格とバランス的には釣り合わないかもしれないが……)。

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    DX160と付属の4.4mmバランスケーブルでつないだところ

試聴にあたり、イヤーピースは付属のフォームタイプのものに付け替えた。筆者は普段、Mサイズのイヤーピースで多くのイヤホンにフィットするのだが、IE 900のシリコンタイプはサイズがひと回り小さい(もしくは傘の部分が柔らかい)ため、標準的なMサイズでも、一番大きなLサイズでも筆者の耳穴を密閉できず、そのままでは低域が抜けてどうにもスカスカした音に感じられてしまったためだ。この記事を読まれる読者諸兄には釈迦に説法だろうが、各量販店や専門店で試聴するときは自分の耳にきちんとフィットするサイズを選びたい。

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    付属のフォームタイプのイヤーピースに付け替えた

なお、従来のIE 800Sとの詳細な比較試聴は、今回は行えていない。ここでは従来からゼンハイザーのモニターイヤホン「IE 40 PRO」(販売終了)を愛用している、いちユーザーの視点でIE 900の魅力に迫ってみた。

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    IE 900(左)と、筆者の私物のモニターイヤホン「IE 40 PRO」(右)

音を聴いてみる

IE 900のサウンドについて、ゼンハイザーは「ヴァイオリンの最初のストロークからその音質の高さを感じられる」とアピールしている。そこでまっさきに聴きたくなったのが、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのライブ音源。アンドリス・ネルソンスの指揮による2020年の音源(『Neujahrskonzert 2020 / New Year's Concert 2020 / Concert du Nouvel An 2020』)から、「美しく青きドナウ」を聴いてみた。

映画『2001年宇宙の旅』でおなじみのあの楽曲だが、曲の始まりでごくごく微かに奏でられるヴァイオリンの繊細なトレモロや、続いて展開されるゆったりしたワルツの旋律などから弓の動きや弦の細かな震えの生々しさ、表現力の高さを確かに感じる。モニターイヤホンのIE 40 PROと比べるのはもちろんフェアではないのだが、ちょっと聞き比べるだけで、ハイエンドイヤホンならではのサウンドが非常に分かりやすく、ついついレビューのためであることを忘れて聞き惚れてしまった。

ドナウから続き、スネアドラムの軽快な響きで始まる「ラデツキー行進曲」は、ニューイヤーコンサートの最後に、指揮者が観客に向かって手拍子を指揮する楽しい楽曲だ。通常のイヤホンでもその高揚感は味わえるが、IE 900で聴いてみると楽曲の旋律や手拍子だけでなく、“黄金のホール”とも呼ばれるニューイヤーコンサートの会場・ウィーン楽友協会大ホールならではの残響感、会場の空気感のようなものまで感じられた。そこまで聴かせてくれるイヤホンはそう多くはない。

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いきなりクラシックから聴き始めてしまったが、ロックやポップスなど他のジャンルも聴いてみよう。

定番のイーグルス「Hotel California」では、ギターの弦を弾く様子やドラム、ベースの深さ、ハイハットの小さな響きまで、鳴っている音すべてが絶妙なバランスで存在しているように感じられた。イヤホンの試聴でいつも聞いている坂本真綾「お望み通り」でも冒頭のベースやドラムの音像がピタッと定まり、月並みな表現だが「本当に目の前で楽器が鳴らされている」かのようだ。もちろんボーカルの表現も、この上なく上質。IE 900の音楽の表現力の高さを改めて実感する。

サラ・オレインの繊細かつ力強い歌声をオーケストラサウンドが支える「Beyond the Sky」は筆者が好んで聴いている楽曲のひとつだが、IE 900ではかつてないほど音が広がり、とても爽やかなサウンドが楽しめた。音場の広がりは基本的に左右方向で、前後や上下方向には個人的には物足りず、ここはもう少し欲しかったところ。

高域を強化したこともIE 900の大きなポイントだが、低域も深く沈み、凄みや余裕を感じる。HOFF ENSEMBLEのアルバム「Quiet Winter Night」に入っている楽曲や、ダフト・パンク「Doin' It Right (featuring Panda Bear)」、ハンス・ジマーの映画音楽「Inception: Time - Orchestra Version (Live)」などを聴くとそれを実感できた。手ごろな価格帯の製品ではなかなか表現できない空気感を、涼しい顔で当たり前のように再現してくれる印象だ。

ここまでDX160とのバランス接続を中心にIE 900のサウンドを聞いてきたが、解像感やクリアさは申し分ない。ウォークマンA100シリーズのようにシングルエンド出力しか持たないプレーヤーでも、その実力は実感できる。ただ、個人的にはやはりバランス接続で聴くのがIE 900にピッタリの聴き方だと思う。DX160は高いアンプ出力を備えたプレーヤーではあるが、より高出力なハイエンド環境でIE 900のサウンドを聴いてみれば、さらに上質な(音の)夢を見せてくれることだろう。

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IE 900のキモ「X3Rテクノロジー」

こういったIE 900の音を実現しているのが、キモとなる「X3Rテクノロジー」。こだわりの音響技術から製造上の品質管理までまとめた総称だ。Xは広帯域(Extra Wide Band)、3Rはドライバーの振動板と音を送り出すノズルの間に配置された「トリプルレゾネーターチャンバー」(three Helmholtz resonator chambers)と呼ばれる音響構造を指している。開発には2年以上の歳月を費やしたそうだ。

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    イヤーピースを外したところ。ステムにもゴミなどが入りにくいようガードを備える

自社開発・製造の新しい7mm径ダイナミックドライバー「TrueResponseトランスデューサー」には、内部損失が高く、素材の鳴きの少なさを追求したポリマーブレンドの振動板を採用。不要な共振と歪みを最小限に抑えている。さらにIE 900の音作りでは、5kHz前後の音域を持ち上げるためにボイスコイルの軽量化が必須と考え、より軽いものを新たに再設計。細い線を使って巻き数を高め、10kHz以上の高帯域のパフォーマンスを向上させたという。磁気回路にはネオジウム磁石を採用。振動板にはコーティングを施さず、徹底してドライバーを軽くした。

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トランスデューサーとノズルの間のパーツには、「トリプルレゾネーターチャンバー」と呼ばれる3つの溝を掘り込んで空気の流れを制御し、各一定の周波数帯域のレスポンスを向上させ、マスキングと歪みを抑制。このパーツの中央に空いている、筆記具ブランド・モンブランのロゴマークにも似た「アコースティックヴォルテックス」(花のような形状の孔)を通して、自然に広がる音にして耳へと送り出す。

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税込18万円近くもするハイエンドモデルなだけあって、IE 900の製造工程では、IE 800S以上に徹底したクオリティコントロールを行っているのも特徴だ。“厳格な歪みの自動認識システム”を備えた機械を用いてサウンドの全数検査を行い、職人による最終チェック作業も行ってからようやく出荷されるという。

パーツ自体のばらつき、わずかな接着剤の量の違いでも周波数特性に違いが出てしまうそうで、同社ではこうした部分にも細心の注意を払い、製造工程を含めてクオリティの高さには「絶対的な自信がある」と説明している。

新開発のドライバーと音響構造を組み合わせ、製造工程での品質管理までこだわった「X3Rテクノロジー」をIE 900に投入することで、従来のIE 800Sから音質がさらに進化。ゼンハイザーによれば、具体的には中音域を持ち上げ、高域では4kHz付近の落ち込みをなくし、6.5~10kHz付近のカーブも滑らかにしたとのこと。

こういった“妥協しない音質設計”が、高品位なゼンハイザーサウンドの実現につながっているわけだ。

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    IE 900(白線)と従来機種IE 800S(グレーの線)の再生周波数帯域を比較したグラフ。中音域を持ち上げ、2~5kHz付近の落ち込みをなくし、6.5~10kHz付近のカーブも滑らかにした

気になる点もある。IE 900はイヤホンケーブルを交換するリケーブルに対応しているが、耐久性・安定性・堅牢性を高めた、独自仕様の端子「gold-plated Fidelity Plus MMCX」を採用しており、一般的なMMCXコネクターを採用した交換ケーブルとの互換性はない。試しに、手持ちのALO audio「Litz Wire Earphone Cable」などのMMCXケーブルを刺してみようとしたが、ゆるくパチンとはまる感触はあるものの、すぐにイヤホンが取れてしまうので、オススメはできない。

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    gold-plated Fidelity Plus MMCXコネクターを採用。一般的なMMCXコネクターのリケーブル製品とは互換性がなく、上手く接続できない

標準で3.5mmのステレオミニケーブルに加え、4.4mm 5極プラグを採用したバランスケーブルと、2.5mm 4極プラグのバランスケーブルを同梱しているのはうれしいが、数千回の折り曲げにも耐えられるという高耐久性を備えるだけあってしなりにくく、タッチノイズもそれなりに感じられる。

ゼンハイザーのイヤホンはこれまで、基本的に独自規格のリケーブル用端子を採用してきており、IE 900も発売当初は同梱のケーブルのみサポートするカタチとなる。ただ、Fidelity Plus MMCXは他社にも提供し、リケーブル製品の開発を打診しているそうなので、今後登場するであろうサードパーティ製品に期待したい。

終わりに

ここまでIE 900の簡単な音質インプレッションや注目すべき特徴を紹介してきたが、10万円を超えるイヤホンはやはりおいそれと買えるものではなく、「凄そうだけど手が届かない……」と感じている読者も多いことだろう。加えて、なかなか気軽に試聴に出かけることがままならない状況でもある。

それでも、気になっている人もそうでない人にもぜひ一度、IE 900をじっくり聴いてみて欲しいと思う。この原稿を書いている最中、ゼンハイザー本社のコンシューマー事業がスイスのSonovaに買収されるというニュースが飛び込んできたが、そんなタイミングでゼンハイザーがフラッグシップイヤホンを出してきたのも「我々のイヤホンは今後こういうサウンドの方向性で行く」という決意の表れ、あるいは静かな宣言のように感じられるのだ。それを実際に耳で確かめてみて欲しい。そして、渾身の新製品のなかに輝きを見出したなら、それは財布との折り合いを付けるステップに来ているということだ(正直な話、筆者はかなり気に入ったので悩ましく、迷っている)。

ゼンハイザーのこれからを心配する向きもあるだろうが、同社によれば、コンシューマー事業の開発・生産・工場を含めたすべてがSonovaの傘下に入る予定であり、2023年までのロードマップを掲げているので開発が止まることもない、というアナウンスが出されている。これはひとつの安心材料といえるかもしれない。

今後の動向にも注目しつつ、願わくばいずれ多くの人の手に届きやすい価格帯の新製品にも、IE 900の開発で培われた技術が降りてくることに期待したい。