ネスレ スキンヘルスは、Appleの医学・医療研究および健康リサーチ向けに設計したオープンソース・ソフトウエアフレームワーク「ResearchKit」を利用して開発された、睡眠中の掻き動作を計測するiPhone/Apple Watchアプリ「Itch Tracker(イッチ・トラッカー)」の提供を開始した。App Storeより無料でダウンロードできる。

Itch Tracker

Itch Trackerは、Apple Watchの加速度センサーの精度の高さを利用して設計されたアプリで、アプリ名が示す通り、就寝中に生じた痒みから、どれだけ体を掻いているか調べ、計測結果を記録できるというものだ。普段、痒みを自覚している、いないに関係なく、自身の健康管理に関心のある全ての人のために開発されており、寝ている間、気付かないうちにどれくらい体を掻き毟っているか、これで分かるようになるという。

本アプリは、ネスレ スキンヘルス・シールドのイノベーションの中で開発されたとのことだ。ちなみに「シールド(SHIELD)」とは、皮膚の健康に関する研究(Skin Health Investigation)、教育(Education)、長寿開発(Longevity Development)からとられた、同社のイノベーションプログラムを指す。ネスレと聞いて、コーヒーやチョコレートといった飲料・食品が思い浮かぶ方も多いと思うが、創業者のアンリ・ネスレは薬剤師であり、現在では大手の製薬会社を抱えてもいるのだ。また、化粧品会社として有名なロレアルの株式を1/4近く保有していることでも知られている(恥ずかしながら、筆者は、今回のアプリをリリースするに至った背景として、こういった来歴の存在を寡聞にして存ぜず、最近観たダニス・タノヴィッチの映画で知ったのであるが)。

ネスレ スキンヘルス・シールド・アジアパシフィック・メディカルディレクター 生駒晃彦医師

掻痒(痒み)は、身近な健康問題の一つで、QOL(生活の質)を下げる原因となるだけでなく、痒みと引っ掻きの悪循環の原因ともなっていると、ネスレ スキンヘルス・シールド・アジアパシフィック・メディカルディレクターにして、Itch Trackerのプロジェクトリーダーでもある生駒晃彦医師は力説する。しかしながら、痒みの程度を正しく評価することは難しく、自己評価に頼る部分が大きいが故、客観性に欠くのは否めず、特に睡眠時の痒みの評価は困難な面があった。それをApple Watchを使って、掻いてる時間を計測できるようにしようというのでスタートしたのがこのプロジェクトである。

これまで、ResearchKitを利用して開発されたiPhoneアプリについては、マイナビニュースでも度々紹介してきたが、それらは大学などの研究機関によるものが殆どであった。国内で民間企業からリリースされるのは、ジンズ(当時はジェイアイエヌ )に続く2番目の事例となる。

本アプリはApple Watchがないと利用できない。寝ている間、Apple Watchを装着するのが前提となっているのだ。ResearchKitを利用し、Apple Watchを活用するというアプリは、世界で2番目、国内では初となる模様だ。

横たわっている間中、計測が継続することから、利用に際しては、Apple Watchに十分なバッテリー残量があることが望ましい。iPhoneの電源もオンのままで、Apple Watchとのペアリングを維持する必要がある。Apple Watchからアプリを起動し、「計測開始」をタップすると測定が始まる。眠りから覚めたら、もう一度、Apple WatchのItch Trackerを起動し、画面の指示に従って計測を停止する。すると、測定されたデータが自動的にiPhoneに転送されるという仕組みだ。転送が完了したら、今度はiPhoneのItch Trackerを開いて、起床時アンケートに回答する。おおよその作業は以上となる。

計測のプロセス

計測されたデータは時間軸上に指し示され、検知した掻き時間、推定される合計掻き時間、10秒以上継続する掻き動作の有無も表示される。推定される合計掻き時間は、およそ検知した掻き時間の3倍になると生駒氏は説明してくれた。3倍という数字は、開発段階の臨床試験で明らかになったそうだ。

計測を開始する前に、年齢や性別などの基本データを入力し、簡単なアンケートに回答する必要がある。これらのデータは、計測結果とあわせて、調査研究用に利用される。ResearchKitには、研究者がデータを大規模に集積して解析を行うという目的が含まれているのだ。もちろん、利用者に対し、調査研究の内容および回答データの取扱いなどの同意書がアプリの中に格納されている。集めたデータに関しては、個人が特定されるような情報は一切収集しない。年齢(年代)、性別といった、個人の大まかな属性のみを取得し、特定の誰が計測したかといったことは分らないようになっている。例えば、集まったAというデータはAさんという人物から取得しましたということだけで、Aさんが○○○○さんだとは分からないようになっており、匿名性が完全に保証されている。プライバシー保護の対策も十分というわけだ。

計測中のApple Watchの画面表示

ここまでの生駒氏のレクチャーで、従前、収集が困難であった痒みの程度の客観的な情報は、ResearchKitならではの機能を使うことで取得できるということは分った。だが、である。Apple Watchは基本的にiPhoneのコンパニオンデバイスだ。国内のスマートフォンのシェアの7割越えを誇るPhoneではあるが、Apple Watchがそれ以上に売れているいうことは想像しにくい。AppleはApple Watchの販売台数を明らかにしてはいないものの、コンパニオンデバイスである以上、iPhoneより販売台数が多いということは、まず、有り得ない(もっとも、筆者のように5つも6つも持っていて、使わなくなったSeries 1モデルを胴回り1mの彼女にあげたりしているという人もいなくはないので、実際のところはなんとも言えないが)。

話がそれたが、何が言いたいかというと、収集するサンプル数については、さほど期待できないのではないかということだ。この件について、生駒氏に伺ってみたところ。

「なので、今回は全世界同時公開ということにしています」という返答が。なるほど、それなら、より多くのサンプルを集められるだろう。「Itch Tracker」とアプリ名が英語になっているのも納得がいく。繰り返しになるが、本アプリは特定の疾患に罹患している人々を対象に作られたものではなく、普段、痒みを自覚している、いないに関係なく、自身の健康管理に関心のある全ての人のために開発されているという点を生駒氏は強調し、多くの人に参加してもらうことで、データの解析に必要なサンプル数を集められるのではないかと説いた。

さらに意地悪な質問を続けてみた。全世界同時公開とは言えど、Apple Watchが販売されている地域には限りがあり、よく売れている地域となると、米国、中国、日本あたりだろうから、偏ったサンプリングとなるはずだ。その理由で生じる差分は問題にならないのだろうか。これには、「基本データを入力する際、『人種』という項目を設定しています。国別、地域別というより、人種別の解析を進めるというのを優先しています」と答えてくれた。つまり、今回の研究では、地域差を調査することは念頭に置かれていないようだ。最初に立てられた研究目標に沿って、アプリの開発が進められ、配布される運びとなったということになる。

拙稿で何度も、iPhoneは医療機器ではないから、ResearchKitを利用したアプリを使っても「診断」はできない、ResearchKitを使って開発されたアプリは、あくまで、医学的な研究に寄与するためにあるのだと指摘してきた。しかしながら、医師の立場から、もし、iPhoneが医療機器であったらと思うような瞬間はないのだろうか? 生駒氏は「個人的な見解ですが」と前置きした上で「医薬品の開発といった場面では、それぞれの国の機関によって様々な規則があって、(Itch Trackerのようなアプリから)こういった情報を得るには、医療機器としての承認を得ていないとデータとして使えませんというケースもあります。ですので、そういったところで役立てて頂くのに、医療機器だと理想的であるとは思います。ただ、医療機器は高度に専門化されているという側面があるので、一般のユーザーに広く使って頂くという面では疑問が残ります。今回のアプリはApple Watchという一般ユーザーが利用しているデバイス向けに作られたものであり、健康管理の参考にして頂くという位置づけですので。先ほど申し上げたような、別の目的があって利用する場合に、オプションとして使えるようになると良いなとは思いますが」と意見してくれた。

現状、iPhoneもApple Watchも認可を受けた医療機器ではない。しかしながら、医療の現場をサポートするデバイスとしては大きな可能性を秘めている。さらに言うと、ResearchKitようなフレームワークを提供しているのはAppleだけなのである。今回のアプリでは、研究目的以外に取得した情報は使わないことを大前提にしているので、ユーザーに対してフィードバックを提供するといったことは実施されないが、ResearchKitにおいては、研究者と被験者の双方向的な利用も可能なのだ。

ネスレ スキンヘルスにおいては、これまで蓄積した医学的・科学的専門知見とITを組み合わせることで、未来の健康的な生活を切り開くポテンシャルを持ち合わせていることを力強くアピールできるようになるはずだ。新たに得られた成果から研究を進めることで、この分野でのリーディングカンパニーとなり、更なる発展を遂げることもまた期待されよう。