東京大学大学院教育学研究科 野崎大地教授

東京大学(東大)はこのほど、頭皮から脳に微弱な電流刺激を加えることで、ヒトの運動スキル修得に関わる「運動記憶」を操作することに成功したと発表した。

同成果は、東京大学大学院教育学研究科 野崎大地教授らの研究グループによるもので、7月28日付の国際科学誌「eLife」オンライン版に掲載された。

記憶が状況(文脈)によって形成・想起されることはよく知られており、運動スキルの学習に関わる記憶「運動記憶」についても同様であることが、近年の研究から明らかになってきている。

同研究グループでは、ロボットマニピュランダムという装置を用いて、右/左向きの力が手先にかかるように設定し、その状況下で標的に向かって手を伸ばす腕到達運動を繰り返すというトレーニングを被験者にさせる実験を行っている。これにより被験者は、最終的に外力を打ち消すように左/右向きの力を産み出しながら、腕到達運動の動作を学習することになる。

ロボットマニピュランダムのハンドルを動かし(A)、腕の上のスクリーン上のカーソル(B)を操作する。マニピュランダムのモーターを設定することにより、動作遂行中のハンドルにさまざまな外乱力をかけることができる

ロボットマニピュランダムを用いて、ハンドルの動きに直交する向きに、ハンドル速度に比例する大きさの外力をかけた状態(A)で、前方への腕到達運動を繰り返すと、ハンドル軌道は最初、外力の方向に逸れてしまうが、試行を繰り返すにつれて徐々にまっすぐな軌道を取り戻す(B)。これは被験者が外力と等しい力を反対方向に発揮しながら到達運動を行うことを学習したためである(C)

この実験において、ターゲットの色が赤のときには右向きの外力、青いときは左向きの外力がかかるという合図を与えて学習させる場合、合図によってかかる力の方向の判断ができるにも関わらず、この運動課題に適応することが難しいことがこれまでにわかっている。たとえば、右向きの力を受けると、手の動きが右方向に振られてしまうため、脳の運動学習システムは、左向きに力を生み出すよう無意識のうちに学習するが、次の試行で逆方向の左向きの力を受けるとわかっていても、前回の学習の効果を抑えることができず、手はさらに左方向へと振られてしまう。

しかし、反対側の腕運動の有無に応じて力の方向を変えると、簡単に学習することが可能になることも明らかになっている。これは、腕到達運動の運動記憶が、反対側の腕運動の有無という文脈に応じて切り替わることを示しているが、このような文脈依存性の運動記憶がどのようなメカニズムで形成されるのかはわかっていなかった。

今回、同研究グループは、運動学習時の脳の状態が、形成される運動記憶に影響を与えると考え、経頭蓋直流電気刺激(tDCS)法を用いた実験を行った。tDCS法は、頭皮上から非侵襲的に2mA程度の微弱な直流電流刺激を加えるというもの。実験では、右腕の到達運動を制御する左側の一次運動野に、陽極/陰極の極性を持つtDCSを与え、陽極tDCSを与えたときには右向きの外力、陰極tDCSのときには左向きの外力を受けながら腕到達運動を繰り返すというトレーニングを被験者に行わせた。

一次運動野に、陽極/陰極の極性を持つtDCSを与え、陽極tDCSを与えたときには右向きの外力、陰極tDCSのときには左向きの外力を受けながら腕到達運動を繰り返すというトレーニングを行った

さらにトレーニング後、ロボットマニピュランダムの力を切り、ハンドルを標的に向かって直線的にのみ動けるような仮想的な壁を作製し、この壁に対して被験者が発揮する力を計測することによって運動記憶の想起量を定量化した。この結果、被験者の一次運動野へのtDCSの極性を陽極-陰極と切り替えるたびに、腕到達運動の際に壁に加えられる力が反転することが明らかになった。

運動記憶のテスト方法。ロボットマニピュランダムの力を切り、ハンドルを標的に向かって直線的にのみ動けるような仮想的な壁を作製し、この壁に対して被験者が発揮する力を計測した

つまり、陽極tDCSを加えているときには、右向きの外力を受けるトレーニングを行っているために、被験者は壁を左向きに押しながら腕到達運動を行い、逆に陰極tDCSを加えているときには、右向きに壁を押しながら腕到達運動を行っていたことになる。なお、被験者は、脳の状態ごとに異なった運動記憶が埋め込まれたという実感は一切持っていなかったという。

今回の結果を受けて野崎教授は、tDCS等を使って、運動の学習時と実行時の脳状態を同一に整えることができれば、より良い運動のパフォーマンスが得られる可能性があるとしている。運動記憶だけでなく、物事や知識などの記憶や条件反射記憶の操作にも今回の手法が活用できるかどうかについては、今後検証していく必要があるという。