産業技術総合研究所(産総研)は1月9日、東京歯科大学市川総合病院、理化学研究所、千葉大学との共同研究により、ヒトの精巣で特異的に発現する「ヒトGALNTL5遺伝子」が正常な精子を形成するために必要不可欠な遺伝子の1つであることを発見したと発表した。

成果は、産総研 糖鎖医工学研究センターの成松久 研究センター長、マーカー探索技術開発チームの高崎延佳 招聘研究員らの共同研究チームによるもの。研究の詳細な内容は、米科学雑誌「米科学アカデミー紀要(PNAS)」オンライン版に掲載された。

日本国内で不妊に悩むカップルの割合は6組に1組の割合という状況にまで上昇しており、不妊の原因の半数とされる男性側が原因となる男性不妊症の内のおよそ80%が、精子の運動能障害「精子無力症」によることが明らかになってきている。しかし医療現場では精子無力症の原因を解明することなく、体外受精などの生殖補助医療が行われている状況だ。

なお精液検査において、射出精液内で運動している精子の割合が40%以下の場合に診断されるのが精子無力症で、精子はべん毛を動かし卵子を目指すため、運動率の低い精子の含有率が高い精液は、自然交配での受精率を極端に低下させてしまうのである。

しかし、ヒトを含めたほ乳類の精子形成の分子メカニズムはいまだに不明な点が多く、今回新たに発見したヒトGALNTL5遺伝子を含めた精子形成のメカニズムの解明が、男性不妊症発症の原因究明と適切な不妊治療法の選択につながるものと期待されているところである。

そのヒトGALNTL5遺伝子は、「ポリペプチドN-アセチルガラクトサミン(pp-GalNAc-T)糖転移酵素」の遺伝子と酷似しており、ヒトの精巣だけで発現する「糖転移酵素様遺伝子」だ。ヒトGALNTL5遺伝子はヒトとマウスに共通して存在するものでもある(画像1)。

画像1。ヒトとマウスに共通して存在し、精巣だけで発現する糖転移酵素様遺伝子

糖転移酵素とは何なのかを説明するためには、まず「糖鎖修飾」から触れていく必要があるので、順を追って説明しよう。糖鎖修飾とは、タンパク質や脂質に糖類を付加する化学反応のことだ。遺伝子から生産されたタンパク質に糖鎖修飾が加わることで、生体内においてタンパク質の機能をより多彩にする作用がある。そうした糖鎖修飾において、糖を付加する化学反応に働く酵素のことを糖転移酵素というわけだ。

pp-GalNAc-T糖転移酵素とは、画像2の模式図にある糖鎖修飾の1つである「O-結合型糖鎖修飾タンパク質」の合成過程に関係がある。O-結合型糖鎖修飾タンパク質の合成は、タンパク質ペプチド配列中の「セリン(Ser)」または「スレオニン(Thr)残基」に単糖である「N-アセチルガラクトサミン(GalNAc)」を付加する反応から始まり、その化学反応に働く酵素のことをpp-GalNAc-T糖転移酵素というのである。

画像2。糖鎖修飾の1つO-結合型糖鎖修飾タンパク質の合成過程の模式図

また、糖転移酵素様遺伝子とは、糖転移酵素が持つ特徴的なタンパク質構造を維持してはいるが、糖転移酵素の活性を試験管内で再現できない遺伝子の総称だ。生化学的な機能が確認できないため、生体内での機能が不明なことが一般的に多い遺伝子たちである。

そこで、ヒトGALNTL5遺伝子の機能を明らかにするために同遺伝子を欠損したマウスが作成された。すると、ヘテロ接合体としてGalntl5遺伝子の一方を欠損させたオスのマウス(Ht)が、ヒトの精子無力症と似た症状によって雄性不妊になることがわかったのである。

ヘテロとは、遺伝子は基本的に両親から1つずつ受け継がれ、2つで1つの対をなす対立遺伝子で構成されるわけだが、1対をなす対立遺伝子が片一方のみに遺伝子欠損、変異などの相違が存在する場合のことをいう。ヘテロ欠損、ヘテロ変異などと表現され、両方とも両方とも完全に一致している場合はホモといわれる。

続けてヘテロ遺伝子欠損マウス(Ht)の精子タンパク質が調べられ、すると精子が運動するためのエネルギーを生み出す解糖系酵素タンパク質「HXK」や卵子との受精に寄与する先体(Acrosome)タンパク質「tACE」や「NSF」が正常な精子(Wt)に比べて著しく減少していることが判明した(画像3)。

解糖系酵素タンパク質とは、精子が移動手段として用いるべん毛を激しく振動させるために用いるエネルギーを作り出すため、精子は自身が持つ糖を分解することでそれを実現しているが、その糖を分解する過程に働く多数の酵素タンパク質のことをいう。精子はほかの細胞とは異なる精子特有な解糖系酵素タンパク質を使うことも近年の研究からわかってきている。

また先体タンパク質とは、精子の核を帽子のように取り囲む精子特有の袋状の細胞構造体である「先体」を構成する複数のタンパク質のことで、卵への結合や卵への精子核の侵入に際して卵の膜を分解するなどの働きを担う。

画像3。遺伝子改変マウスの精子で観察されるさまざまなタンパク質の異常

最後に、ヘテロ遺伝子欠損マウスで精子運動能障害やさまざまな精子タンパク質の異常が観察されたので、さらに男性不妊症を発症しているヒト精子を用い、ヒトGALNTL5遺伝子変異によって発症した精子無力症の症例の調査が行われた。

その結果、画像4Aのように、No.9の患者精子(画像4A赤枠)では、画像3と同様のヒトGALNTL5遺伝子の変異が原因となる複数のタンパク質が減少していることが確認されたのである。この患者の精子と血液細胞中の、GALNTL5遺伝子では一塩基の欠失がヘテロに存在した(画像4B、同C)。この遺伝子変異は母親から遺伝したものであると推測されるという。

画像4。精子無力症におけるヒトGALNTL5遺伝子変異発症例

産総研では現在、ヒトGALNTL5遺伝子変異を簡便かつ迅速に同定する技術が開発されたことから、適切な治療法の確立を進めているとする。また、精子無力症の発症にはほかにもいくつかの遺伝子が関与していると考えられ、今後、産総研ではほかの原因遺伝子も可能な限り同定し、それらを簡便かつ迅速に同定する技術開発を目指すとした。今回の手法の開発は、精子無力症の原因遺伝子変異を明らかにすることにより、適切な生殖医療法を選択する上で必須な診断技術になると考えられるとしている。