Google Earthをクリックしてカーソルをニューヨーク、ロングアイランドに合せてみて欲しい。ブロンクスとロングアイランドをつなぐフリーウエイ295号線を南に下り、交差する495号線を東になぞると双子の半島のようなグレイトネックとサンドポイントが見えてくるはず。

我々は、車で行ったが、ペン・ステーションからロングアイランド鉄道に乗りポートワシントンで降りれば、主人公ニックの気分に一層浸れるかもしれない(作品の中で、この列車は、結構重要な役割を果たしているから)。気まぐれな文学紀行に付き合ってくれたのは、ニュージャージー州在住のジャーナリスト、石川幸憲さん。タイムマガジンの記者を辞めて現在はアメリカ歴史哲学の著作に専念している。

まずはフィッツジェラルドが妻のゼルダと、1922年10月から1924年の5月まで住んだグレイトネック駅に近い6 Gateway Driveの家を探す。彼らがここに引っ越したのは、週200ドルかかるマンハッタンのホテル暮らしに音を上げたからだ。これに比べグレイトネックの家賃は月300ドル。物価換算で現在の3,000ドル(約36万円)ぐらい。ともかく家賃は二分の一以下になったわけだ。

1920年、24歳の時出版した、「This side of paradise」ですい星のように文壇デビューしたフィッツジェラルド。世界中の富がなだれ込む奔流の中で、自らの世界史的使命を見出せなかった若きアメリカゆえの向こう見ずな行動、こころの彷徨。フィッツジェラルドやヘミングウエイの作品は、Jazz Age、「狂乱の20年代」、ロスト・ジェネレーション文学などと呼ばれた。

若さ、美貌の妻ゼルダと文学的盛名、社交界の寵児。でも、それは、エキセントリックな妻との葛藤、浪費、そして禁酒法下にも拘らずアルコール漬けと背中合わせの日々でもあった。

当時、グレイトネックには、俳優のグーチョ・マルクス、劇作家のP.G.ウッドハウスといったブロードウエイの人気者が住んでいた。またグレイトネックの先端、キングス・ポイントには密造酒の取引や、証券ブローカーで巨万の富を得た成金達の別荘があって、これらの"カラフルな人々"との交流もグレイト・ギャツビーの中で生き生きと再現されている。

「ガレージの上の書斎で著作していた」という記事を頼りに、家探しをしたのだが家並みが変わり、フィッツジェラルド家の発見には失敗。仕方がない、ではギャツビーが夜な夜な眺めたイースト・エッグ(サンド・ポイント)に行ってみよう。

ポートワシントンを抜けて半島に入った瞬間、グレイト・ネックとの差に気が付いた。つまり格が違うのだ。1695年というから江戸初期にサミュエル・サンドが夏の別荘地として開発したこの半島には、代々、鉄道王でニューヨーク州知事も務めたハリマン、新聞王のハースト、グッケンハイム美術館で名を残した実業家、グッケンハイムなど政財界の大立者が週末を過ごす豪壮な別荘を建てた。

敷地の広さも全く違う。たとえばインターナショナル・ヘラルド・トリビューンで、「デイジーが住んだ家ではないか」と書かれた半島突端のマンション、「ランド・エンド」は敷地15000坪。母屋は25室、ベットルーム15、浴室14。海に突き出したプール、更衣室の屋上はダンスフロアー、7台分のガレージに屋外用と屋内テニス・コートなどなど...。建造されたのは1902年というから日露戦争前だ。今日では、オーナーが手放し公園や大学になった建物も多いが、我が家の10倍はあるレンガ造りの馬小屋、訓練用の馬場を備えた舘も多い。ランド・エンドで、2001年に行われたオークションでは入札開始価格が5000万ドル(60億円)だったそうだ。

こうしたセレブ達も、パーテイには気晴らしにグレイト・ネックの"胡散臭い連中"を招いた(フィッツジェラルドもよく招待されたらしい)。でも、親の代からの大金持ちと成金では、ある点から絶対まじりあわない目に見えない一線がある。フィッツジェラルドが描きたかったのは、そこだったんだなあ、と思った。

私邸なので、外周からギャツビーの想いを偲んだ。しかし、すぐフィッツジェラルドの皮肉なトリックに気づいた。ランド・エンドは横隣りのグレイトネックには向いていなくて、海峡の対岸、ウエストチェスターに面していた。(小説の中の)ギャツビーの家からは、グリーンライトも波止場も見えなかったのだ...。