グラウンド・ゼロを取り囲む回廊を友人と一周する。回廊というといかめしいが、あくまで仮設で、昔の駅のようにプラットフォームをつなぐ木製の階段と通路を想像していただけばよい。
この年若い友人は9.11の事件当時、ニューヨークの日本総領事館で広報担当をしており事件を最もよく知る日本人の一人である。しかし彼女も言葉少なだった。
「最も記憶に残るものは何?」と聞いても、「ウーン、けむり、サイレン、鳴りっぱなしの電話ね。それから小泉前首相が現場を訪れた時のマスコミ対応。あの時は何もかもがひっくり返っていたから...」と断片的だ。
現在ニューヨーク在住の彼女だが、グラウンド・ゼロを訪れるのは、事件後初めてとか。アメリカ人でなくても"あの日の記憶"を持つ人には現場に戻る足を重くさせる何か、があるようだ。
気がついて見れば相当数の見物客が一緒に回廊を歩いている。だが彼らの足音が耳に残るほど静かだった。確かにこの光景を前にしては饒舌にはなれないが...。地下6階ぐらいまで堀抜かれた空間から地下鉄2車線分ぐらいの太さのトンネルが突き出ている。開口部は何かでふさがれていた。そのほかにチューブをレンチでねじ切ったような水道管やガス管だろうか、都市の地下に埋設されていた様々な機能がむき出しになっている。それが神経、血管、折れた骨のようにも見えて、なにか巨大動物の内臓をのぞき込むような気がした。
かつてのWTC(ワールド・トレード・センター)駅の跡にはニュージャージー州との間をつなぐコミューター駅が作られていて、これまた地下鉄駅が突然、周りの地層を剥がされたよう。私には子供のころ理科の実験で作ったガラス箱のアリの巣のようにも見えた。
グラウンド・ゼロ、北東のコーナーに、新しいセンターでは最も高い建造物になるフリーダム・タワーが立つ予定だ。それを囲む格好で、ビル群がヘッジストーンのようにそそり立つ、というのが再建計画の基本デザイン。しかし細部設計に関しては、事件から6年もたつのにまだ最終決定に至ってない。ここらへんが、いかにもアメリカ的とも思えるが、ワールド・トレード・センター特有の事情もある。
第一がWTCを所有するニューヨーク市、ニュージャージー州港湾局と両港湾局から土地建物をリース契約している不動産業者、シルバースタイン氏対保険会社各社との保険金支払い協議が難航を重ねてきたことだ。ツインビルは単数契約か、複数契約か -- など原則論をやりあっているうち6年間もかかってしまった。協議は、今年5月末に保険会社シンジケートが総額45億5千万ドル(約5,500億円)という史上最高額の保険金を支払うことで原則合意したと伝えられる。(ニューヨーク・タイムズ電子版5月26日付け)。これによって3者は総額90億ドル(約1兆1千億円)とも見積もられる新しいWTCコンパウンド造りに向けた基礎資金を得た。
しかし、シルバースタイン氏が記念碑的なフリーダム・タワー建造に消極的であるとか、地権者の一人であるドイツ銀行がビル・レイアウトにクレームをつけるなど、工事は、ツチ音高くフル回転というにはほど遠い状況らしい。
さらに、ここに来てもう一つややこしい問題が起きてきた。公衆衛生問題だ。この数年、事件直後に救出活動に参加した公務員や市民、その遺族、あるいはグラウンド・ゼロ近くにオフィスを持つ人がニューヨーク市に損害賠償を求める裁判が急増している。
事件直後のアスベスト粉塵などが混じった有毒ガスを吸った人々の間に肺気腫や肺がんなどの症状がみられることは事実。死亡者も多数出ている。裁判で問題になっているのは皮肉にも事件直後の水際立った采配で英雄となったジリアーニ前市長の対応だ。ニューヨーク市の公衆衛生局の担当者らが、「市長が救出や復旧作業を急ぐあまり連邦法で定められた安全基準を無視した作業を行わせた」と次々に証言したからだ。
例えばアスベストの二次被害を防ぐための防塵マスクは着用が義務つけられているのにその指示を出さなかったことに非難が集中している。来年の大統領選挙で共和党の有力候補とみられるジリアーニ氏だが、治安、災害に強いという得意技が逆目に出る可能性も指摘されている。
グラウンド・ゼロにたたずんで、歩いて数時間。整理のつかぬ気持ちを抱えてイースト・ビレッジの一角まで出た。この一角はミッドタウンにない、気さくでうまくて安いエスニック料理店が軒を並べる。ムール貝を中心としたギリシャ料理を注文し、ワインを飲んだ。休日のレストランは満員。喧騒に包まれていた。ニューヨーカーは過去を忘れない。でも振り返らない。