ビジネスの基本として「報・連・相(ほうれんそう)」が重要だとよく言われます。しかし、現実には進捗の遅れやトラブルをそのまま伝えれば、上司の顔色は曇ることが少なくありません。相手の機嫌を伺い、つい耳当たりの良い報告に寄ってしまう。そうなると、本来は問題の芽を早く見つけるための報告が、かえって判断を遅らせることもあります。「テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏」の過去回はこちらを参照。
進捗報告では「順調です(青信号)」とされていた案件が、締め切り直前で突然「延期(赤信号)」に変わる。こうした状態は、表面は緑でも中身は真っ赤、という意味で「スイカ・プロジェクト」と呼ばれます。
多くの企業が頭を悩ませるこの問題に対し、近年あらためて注目を集めているのが、前回の効果的なレビュー構築でも簡単に紹介した「予測市場(Prediction Market)」です。
KalshiやPolymarketのような外部の予測市場が存在感を増すなかで「市場の仕組みを企業内の意思決定にも応用できないか」という発想が現実味を強めてきました。米商品先物取引委員会(CFTC)も3月12日、予測市場を含むイベント契約に関する規則整備に向けて意見募集を始めており、この分野が無視できない存在になっていることがうかがえます。
「声の大きい人」ではなく「価格」が真実を語る
企業内予測市場の発想はシンプルです。たとえば社内に「新機能Aは5月1日までに公開されるか」という市場を設け、エンジニアやデザイナー、QA担当者などに社内トークンを使って「公開される」「延期する」のどちらかに賭けてもらいます。
プロジェクトマネージャーが会議で「順調です」と説明していても、現場では「バグが多くて間に合いそうにない」と感じている人が多ければ「延期」の側に注文が集まり、価格にそれが表れます。
経営層は、上がってくる主観的な報告に頼る必要はありません。ダッシュボード上の価格を見て、リソースの追加投入や延期の判断に必要なデータをすばやく把握できるようになります。
こうした企業内予測市場は、決して新しい発想ではありません。2000年代から同市場の可能性を研究していたGoogleは2021年、社内で再構築した予測市場のレポートを公表しました。同社は、1万人超の従業員による17万5000件超の予測を分析しており、対象はCOVID-19、技術トレンド、エンジニアリングのマイルストーンなど多岐にわたります。
では、なぜ今、企業内予測市場への期待が高まり、IT以外の領域にも広がりを見せているのでしょうか。
大きな理由は「環境変化の激しさ」にあります。AI、規制、地政学、サプライチェーン、金利、消費者心理など、不確実な要素が重なる現代において、経営陣の勘や特定部署のレポートだけで未来を見通すのは限界があります。
会社の中には、営業、開発、法務、サポートなど、あちこちに小さなシグナルが散っています。企業内予測市場の魅力はそれらを拾い上げ、価格や確率で可視化することで、経営の意思決定に「集合知」をすばやく取り入れられることにあります。
-

Googleの社内予測市場における最初の200件の確率に関する質問の予測精度。青線は完全な精度を表しており、10%の確率で発生すると予測された事象は実際に10%の確率で発生します。赤線は市場のコンセンサス予測を表しています。質問は非常に難しいものの、市場の予測はかなり正確であることがわかります
予測市場の規模も拡大しています。証券会社Clear Streetのアナリストによると、2025年に予測市場の世界的な取引高は470億ドルに達しました。KalshiはPlus500と提携して米個人投資家向けの接点を広げており、予測市場は「周辺的な試み」から「本格的な市場インフラを伴う分野」へ近づいています。
ただし、「忖度のない経営」の万能薬ではない
もっとも、予測市場を「忖度を排除した意思決定」の魔法の杖と見なすのは早計です。市場に参加するのも人間である以上、組織への期待、思い込み、情報の偏りがどうしても価格に乗ります。市場は会議より正直かもしれませんが、だからといって無垢ではありません。
企業内予測市場の研究では、専門家予測より良い結果を出した例がある一方で、楽観バイアスの存在も指摘されています。
つまり、会議室の政治が減っても、今度は市場特有の偏りが前面に出てくる可能性があります。予測市場は「偏りを消す仕組み」というより、これまで見えにくかった偏りを、確率として可視化する仕組みと捉えるほうが実態に近いのかもしれません。
問われるのは「本音の可視化」と「情報優位」の境界
もう一つの大きな論点は、情報優位をどう扱うかです。現場をよく知る人が参加するほど市場は賢くなりますが、その人が他の参加者が知り得ない非公開情報まで持っている場合、“インサイダー”のような公平性やガバナンスの問題が生じます。
この点は、外部の予測市場でも強く意識され始めています。CFTCは3月12日の意見募集で市場操作の論点を挙げました。また、カリフォルニア州のギャビン・ニューサム知事は3月27日、州政府高官が非公開情報を利用してKalshiやPolymarketなどで利益を得ることを禁じる命令を出しました。
これは一見すると逆風ですが、裏を返せば、予測市場が無視できない存在になったことの表れでもあります。強い影響力を持ち始めた市場は批判と監督を呼び込み、そのことがさらに市場の重要性の認識を広めます。
現時点で企業内予測市場は、まだ試験的な導入がほとんどですが、本格導入へ踏み出す企業が現れ始めるのも時間の問題かもしれません。
ただし、市場の数字を鵜呑みにして機械的にプロジェクトを打ち切るような運用の硬直化は禁物です。会議には「声の大きい者が勝ちやすい」という問題があり、市場には「情報を持つ者が有利になりやすい」という問題があります。前者は曖昧なまま見過ごされがちですが、後者は比較的見えやすい。
予測市場が企業にもたらす価値は、完璧な正しさではなく、経営陣が「問うべき問い」を見つけるための早期警戒システムとして機能させることにあります。市場が発する不協和音にどう向き合い、意思決定の質をいかに高めていくか--。予測市場の真価は、当たり外れではなく、可視化された「不都合な真実」を組織の知性へと転換し、意思決定の解像度を高めるプロセスに宿ります。
