トイレットペーパーの利用ルールと見積もり工数の関係とは

中国のデパートやオフィスビルのトイレには、個室にトイレットペーパーが備え付けられていないものも多い。ではペーパーは必ず自分で用意するのかというとそうでもなくて、入り口に巨大なロールが設置してあることもある。この場合、まず自分で必要なだけのペーパーを引き出してから個室に持ち込むのである。

さて、この場合問題になるのは、見積もりである。どれだけの量のペーパーを引き出したら足りるかという深刻な問題である。次のようなルールを設定してみよう。


入り口にはトイレの管理人が立っており、利用者が引き出すペーパーの量を監視している。個室が混み合っている場合は、管理人が順番を決める。一番少ない量のペーパーを引き出した人から優先的に利用できることとする。

さらに、個室の中のことは(当然ながら!)管理人からは見えない。だから、利用者の引き出したペーパーが余ったのか、ちゃんと使い切ったのかは管理人にはわからない。


このルールの下で、あなたは何度かこのトイレを経験するうちに、ペーパーを少なめに取ると大変困ったことになるということに気づくはずだ。だから、個室が混み合っていない状況下では、あなたは常に多めに(これ以上は使わないだろうという量の)ペーパーを引き出すように行動するはずだ。

しかしこれではペーパーの浪費を招く。この引き出し方ではペーパーが余ることはあっても足りなくなることはあまりないからだ。そこで管理人はペーパー節約のための対策をとろうと考えた。対策案は二つある。

A. 使い切らずに余ったペーパーは管理人に返してもらうようにする。また、足りない場合は大声を出してもらえば追加分をドアの上から渡すようにする。

B. 入り口の巨大なロールを廃止し、個室にペーパーを備え付ける。

Aはあまり有効とは思えない。利用者にしてみれば余った分を返すことに特にメリットはないし、実際には余っていても無理やり使いきって余らなかったフリをすることは可能だ。追加のたびに大声を出すのもちょっとイヤだ。結局多めにペーパーを引き出すという上で述べた行動パターンは変わらないだろう。

Bの対策をとれば、あらかじめペーパー使用量を見積もる必要がなく、ペーパー余りによる浪費は防げる。しかしこの対策にも欠点はある。まず、必要なだけ都度ペーパーを引き出せる安心感から、その使い方には無駄が多くなる可能性が高い。さらに、個室が混み合っている場合に管理人が競争原理を導入する手段がなくなり、個室は純粋に到着順による順番待ちでの利用となる(※)。

※利用者にとっての公平性という点からはこれが現実的な解ではあるのだが、ペーパーをできるだけ節約するという管理人の目的にとってはBにも問題がある。

ここで理想的な解を探索するつもりはない。賢明な読者はもうお気づきだろうが、筆者の目論見は、これをソフトウェア開発における工数見積もりの問題に置き換えてみようというところにある。

オフショア開発の見積もり工数が大きくなるワケ

この連載でもすでに触れたように、オフショア開発の委託先から示される見積もり工数は、日本国内での委託の場合とくらべてだいぶ大きく感じられることが少なくない。オフショア開発の見積もり工数が大きくなるそのメカニズムは、上のトイレットペーパー見積もりの場合と非常に似ている。ペーパーを、委託先が委託元に対して計上できる工数に置き換えてみよう。すると、このオフショア開発というゲームが次の条件設定の下に行われていることがわかる。

  • 競争が少ない……個室(取引チャンネル)が混み合っている場合(そのチャンネルを通じて案件を受注したい人が多い場合)には、競争原理が働いて引き出すペーパー(工数)の量は最小限になるのだが、混み合っていない(競争相手が少ない)場合にはペーパー(工数)は多めに取れる。
  • 後からの追加は難しい……個室(取引チャンネル)に入ってしまった後にペーパーが足りないことに気づいても、追加する(工数を追加計上する)ことは難しい。だからペーパー(工数)は最初にできるだけ多く引き出しておきたい。

これらの条件下では見積もり工数が大きくなりやすいことは当然予想できることなのだ。 では、日本国内での委託の場合はどうだろう。前提として、取引相手は固定的・長期的である傾向があるとする。国内の委託先は、(会社の体力にもよるが)工数に関して融通が利く場合が多いといわれる。つまり、結果的にある案件で実工数が見積もり工数をオーバーしても委託元に費用の追加請求をしないことも多々あるというのである。この行動パターンを説明するためには、国内委託の場合にはある「隠れ機能」が使われているとしなければならないだろう。

その隠れ機能とは何か。トイレの例に戻すと、実は日本国内のトイレ利用者のためには余ったペーパーを個室内に保管する「Myロッカー」があるのだ。Myロッカーはその利用者専用だから、余った分を保管しておけば次に個室に入ったときには確実にそれを利用できる。この隠れ機能があり、個室利用をめぐる競争がある限り、利用者はペーパーを過剰に引き出すことはしなくなっていく。前回の余りが利用できるからだ。つまり長期的にその個室を利用していれば、ペーパーの「収支」はとんとんになる。

ソフトウェア開発取引において、このMyロッカーは、次も御社に委託しますよ、ということを保証する保険みたいなものだ。この仕組みがある限り、委託先は相場をはずした工数を見積もってくることはないはずだ(※)。なぜなら長期的に見ればその方が委託先にとって安全だからだ。

※ただしこれは最小の工数見積もりになることを保証するわけではない。

文化が違うせいではない

さて、なぜ筆者がこのトイレットペーパー見積もりの例を引き合いに出したかというと、同じ条件設定の下では、利用者がどの国から来たかに関わらず同じ行動をとることをこれによって説明しやすいからだ。「オフショア企業の見積もり工数は大きすぎる」という話が出るたび、やれ文化の違いだの、企業努力が足りないだの、血を流せだのという文化論や精神論に傾きがちだ。しかし実際には、取引の条件設定を変えることができれば文化の違いに関係なく相手の行動は変わるし、どう変わるかもある程度予想できるはずである(※)。

なぜオフショア企業はそのように行動するのか、なぜ変わらないのか、取引という観点でドライに見つめなおしてみることをお勧めしたい。

※こうしたことはゲーム理論やインセンティブ理論が専門的に取り扱う分野であろう。
管理人が発案した二つの対策案のうち、Bはソフトウェア取引で言えば出来高払いに相当する。つまり、使った工数を積みまして後で実績としてその費用を請求するやりかただ。それに対して、あらかじめ見積もった工数内で仕事をするのは請け負いである。

著者プロフィール

細谷竜一。1995年、Temple University(米国)卒業。1997年、University of Illinois at Urbana-Champaign(米国)コンピュータ科学科修士課程修了。1998年~2007年総合電機メーカーを経て大連ソフトウェアパークにある某大手ソフトウェア企業で3年間勤務。2008年からユーザ企業系IT会社の社員として上海のオフショア開発拠点に赴任。学生時代はオブジェクト指向やデザインパターンなどの研究に従事。GoFの一人、Ralph E.Johnson氏の講義を受けた経験も。卒業後も、パターンワーキンググループの幹事を務めるなど、研究活動に積極的に取り組んでいる。