【母の教え】アシックス会長CEO・廣田康人「『何事も一番を目指しなさい』という母の言葉を胸に」

「几帳面で教育熱心な母でした」─。アシックス会長CEOの廣田康人氏は、母・月子さんのことをこう振り返る。子どもの頃、優秀だった月子さんだったが、兄弟が多かったこともあり、上の学校に進むことができなかった。その分、廣田氏や弟に期待をかけ、上の学校に進んで勉強してくれることを願った。また、月子さんは廣田さんの決めたことには絶対の信頼を寄せ、就職や結婚など、反対されたり意見されることはなかった。廣田氏の母への思いとは─。

 体育教室に通ったことが東海中学受験につながる

 私の母・月子は1929年(昭和4年)7月、愛知県名古屋市で普通の会社員の家に生まれ、結婚前には税務署に務めていました。

 父の捨治は1927年(昭和2年)7月生まれで、やはり名古屋の出身です。父は警察官で、最終的な職位は警視正、西尾警察署(愛知県西尾市)の副署長まで務めました。両親はお見合いで結婚しました。2人は仲が良く、喧嘩をしているのを見たことはありません。

 私が生まれた時は大変だったそうです。逆子で生まれたことに加え、「斜頸」といって首が一方向に曲がっていたからです。今はマッサージなどで治すようですが、私の頃は手術が必要で、1歳の時に手術をしました。今も首には傷が残っています。

 病院が家から離れた場所だったのですが、母は市電などを乗り継いで、欠かさず病院に通って付き添ってくれました。このことは母が税務署を辞めた理由でもあります。このことは母からではなく父から「こういうことがあったんだよ」と聞かされました。

 母の献身もあって、私は健康を取り戻し、3歳の時には健康優良児に選ばれるくらい大きくなりました。

 我が家は両親と私、弟の4人家族ですが、よく旅行に連れて行ってくれたことも楽しい思い出です。同じ愛知県の犬山にある博物館明治村や、知多半島の内海海水浴場、富山県の黒部峡谷、岐阜県の養老公園などに行ったことが思い出されます。

 両親は兄弟が多かったという背景もあり、2人とも学校は高等小学校までです。特に母は子どもの頃、優秀だったらしく、先生からも「女学校に行かせるべきだ」と勧められたほどだったそうです。

 そうしたこともあって、自分たちが行けなかった分、私と弟には上の学校に行って欲しいという思いを強く持っていました。

 その意味で母は教育熱心でした。私は小学生の頃、体は大きく、勉強はまあまあできた方でしたが、残念ながら運動神経がよくありませんでした。弟とは2歳違いでよく喧嘩もしましたが、私とは対照的に運動ができて、サッカーに打ち込んでおり、女子にも人気があるタイプでした。

 私からすると、運動のできる弟にはコンプレックスを感じていましたが、弟からすると私の方が大切にされているという思いを抱いていたようです。

 母は私が運動が苦手なことを心配して、せめて逆上がりくらいはできるようになって欲しいと、YMCA(キリスト教青年会、キリスト教精神を基盤に教育・スポーツ・福祉・文化活動を行う世界的非営利組織)の体育教室に通わせてくれました。

 我が家は愛知県名古屋市の中で西の方に位置する中川区にありました。中日ドラゴンズの本拠地だったナゴヤ球場があった地域です。そこから名古屋の中心部にあるYMCAまで、バスで40分ほどかけて通わせてくれたのです。

 この名古屋中心部に通ったおかげで、接点がなかった中学受験というものを知りました。私が通っていた小学校では、中学受験をする人間は学年で2、3人という状況でしたから縁遠かったわけですが、一気に身近になったのです。そうして中学受験をし、中高一貫教育の東海中学に行くことになりました。

 ちなみに私が東海中学を受験すべく勉強を始めた時期、父に対して母からプレッシャーがかかり、昇進試験を受けていました。それまでは巡査が長かったのですが、それ以降は、順調に昇進していきました。

 家族揃って 「三菱」との縁を感じて

 母は躾に厳しい人で、私の要領が悪いと怒られました。例えば私がどこかに行く用事があったとします。そうした時には「1つのことだけをしてくるのではなく、いろいろなことを同時に考えてやりなさい」と言われたことがあります。

 母が言っていた「遅いことなら猫の子でもやる」というフレーズが思い出されます。

 また、母からは「何事をやるにしても一番を目指しなさい」とも言われました。もちろん、一番になるのは現実には難しいのですが、途中で「それでいい」と思わずに取り組みなさいということだったのだと思います。

 中学、高校ではスキー部に入部しノルディックスキーに取り組みました。途中で辞めることにはなりましたが、打ち込んだつもりです。志賀高原などに合宿に行きましたし、先輩が厳しかったことが思い出されます。

 スキーウェアなど用具や遠征費用など、お金がかかりましたが、何も言わずに出してくれたことには非常に感謝しています。

 また、私は本が好きだったのですが、本を買うお金も積極的に出してくれました。高校時代には高校1年生の時の担任だった宮崎宏一先生から「1日1冊本を読みなさい」と言われて、その影響でできる限り本を読むようにしていたので非常に助かりました。

 実際には1日1冊は難しかったですが、星1つの岩波文庫(かつては星の数で定価を表示していた)を買ったり、図書館で借りたりして、片っ端から乱読をしていた感じです。

 当時、最も印象に残ったのは内村鑑三の『後世への最大遺物』です。人間は後世に何を残すのかという時に、偉業や本など様々なものがありますが、最後はその人の生き様であるということが書かれた本です。

 東海中学、高校を経て、1年の浪人を経験しますが、予備校時代から東京に出て1人暮らしを始めました。この頃から、私の中には「自立したい」という思いが強くありました。早稲田大学を卒業して、東京で就職したわけですが、経済的な自立ということも考えるようになったのです。

 三菱商事への入社も、特に両親に相談することなく、入社が決まってから連絡をしましたが、母は喜んでくれました。

 父は戦時中、軍隊に入っていたのですが、復員してから警察に入るまでの間、少しだけ三菱重工業名古屋製作所に勤めていた経験があったので、こちらも喜んでくれました。

 弟も三菱銀行(現三菱UFJ銀行)に入行しましたから、結果としてですが、家族揃って三菱グループとのご縁があったということだと思います。

 「子どもは国から預かった大切な財産」

 東京に出て以降は週に1回は電話をしていました。妻は三菱商事の同僚で社内結婚でしたが、「結婚することにしたから」と電話で事後報告しました。さすがにそれは驚いていましたね(笑)。

 ただ、就職にも、結婚にも一切反対することがありませんでしたから、私の選択を信頼してくれていたのだと思います。

 私が30代の頃、イギリスに駐在したのですが、両親はロンドンまで遊びに来てくれました。ニューヨークに駐在していた弟のところにも遊びに行くなど、父が定年退職する頃からは、2人でよく旅行をしていました。

 また、母は元々、字が上手な人でしたが、我々が独立してから書道を習い始めました。父との旅行もそうですが、我々に手がかかる時期にはできなかったけれども、母の中でやりたかったことができるようになったということなのだと思います。

 母は2017年に亡くなりました。当時、私は三菱商事の関西支社長を務めていて関西にいたため、残念ながら亡くなる時には間に合いませんでした。 

 父はその3年後、2020年に亡くなりました。「親孝行したい時に親はなし」といいますが、まさにその通りだと思います。親にどれだけのことを返すことができたかということも考えることがあります。

 私の子どもは男2人、女2人の4人おり、みんな独立しています。自分で家族を持ってからは、両親が私たちにしてくれたように、誕生日にはみんなで集まって食事をするなど、そのつながりを大事にしているつもりですが、子どもたちがどう思っているかはわかりません。

 妻は母から、「子どもはお国から預かった大切な財産だから、しっかり育てないといけない」と言われていたそうです。その話を聞いて、やはり母は背筋がピンと通った、戦前育ちの女性なのだと改めて感じました。