与えられたタスクを自律的に実行する「AIエージェント」の技術的な進歩を背景に、2024年末から「SaaS is Dead」論に関して議論の輪が広がった。簡単に言うと、AIエージェントが高度化することでSaaSを代替するのではないか、という議論だ。
確かに、AIエージェントに「経費精算しておいて」と依頼できるようになれば、人間の業務のインタフェースはSaaSからAIエージェントに置き換わってしまいそうだ。
果たして、本当にSaaSは死を迎えてしまうのだろうか。疑問に思った筆者は、楽楽精算などを手掛けるラクスの取締役 兼 CAIO(チーフAIオフィサー)を務める本松慎一郎氏に取材した。
AIエージェントの高度化が呼んだ「SaaS is Dead」論
会社の経費精算業務にSaaSを利用している企業が多いと思うので、経費精算業務をAIエージェントが代替する世界を具体的に示してみよう。
例えば、ある社員がAIエージェントに「経費精算しておいて」とざっくりした指示を出すと、AIエージェントは自律的にこの指示を遂行するため細かなタスクに分解し、領収書などの証票を読み取ったり、社内規定を参照したりしながら上司に経費を申請する。
また、上司も「部下からの申請を承認しておいて」とAIエージェントに指示を出すだけで、AIエージェントが申請内容を確認して、社内規定などと照合しながら承認 ・却下を判定できるようになる。
このとき、社員と上司はAIエージェントに指示を出しただけであり、SaaSのインタフェースを介在していないように見える。これが、「SaaS is Dead」論を後押ししている。
「AIエージェントの台頭は脅威になりそう」だった2025年の幕開け
「SaaS is Dead」論が話題になり始めた2025年のはじめころ、本松氏は「AIエージェントの台頭は脅威になりそうな印象」を持っていたという。その一方で、企業の目線では「人間の業務をAIエージェントに任せることで、業務効率化が期待できる」とも考えることができる時期だったとのことだ。
こうした期待感から、生成AIやAIエージェントに業務を任せるPoC(Proof of Concept:概念実証)に取り組んだ企業が増加したものの、うまくいかず実用化には至らないプロジェクトも多かった。
本松氏の分析によると、その理由は大きく2つに分けられる。1つ目は生成AIの確率論的なふるまいに起因するもので、2つ目は生成AIの学習データによる知識に起因するものだ。
まず1つ目の理由だが、AIは確率に基づいて出力を決定する仕組みであり、その精度は決して100%ではない。仮にAIエージェントが特定の業務を5つのタスクに分解して実行し、連続で成功する必要がある場合、各タスクの正解率が95%だと仮定すると、最終的な正解率は77.4%ほどまで下がる。10個のタスクに分ける場合は59.9%だ。
その結果、人間の業務を手放しでAIエージェントに任せることが難しく、PoCの当初に期待した精度が得られないことから、取り組みが失敗してしまう例が多いという。
2つ目の理由は、AIはオープンなデータで学習している反面、社内のクローズドなデータでは学習していないため、自社に特化した業務を正しく実行できないからである。当然ながら、AIが自社のデータで学習していない場合には、自社の業務に適したタスクを実行するのは難しい。
こうした課題を解決するためにRAG(Retrieval-Augmented Generation:検索拡張生成)といった技術も開発されたが、AIが参照するデータが更新された場合や、矛盾のあるデータを参照している場合には、AIの正解率が低下してしまう。常に最新の知識や社内制度を適切に管理し続けるナレッジマネジメントは困難だ。
この2つの理由から、期待感を伴って開始されたAIエージェントの活用が、多くの会社でうまくいかないのだという。
SaaS界隈に起きる2026年の2つのトレンドとは?
本松氏はこれら2つの理由に対し、「AIエージェントの仕組みを考えると、これからAIの性能が高度化しても、人間の業務を完全に代替するのは難しい」と予想する。そして、これこそが2026年の大きなトレンドになるとも、同氏は予測している。
AIエージェントは、手順が決まっており、例外の少ないタスクを得意とする。その反面、例外が多く状況に応じた柔軟な判断が必要なタスクは不得意だ。
会社の中のあらゆる業務に対応できるAIエージェントを作るのは、社内のあらゆるデータを与えなければならないので難しい。しかし特定の業務、例えば「購買の承認だけ」を実行するAIエージェントであれば作りやすい。これにより、誤りが発生し得る範囲を限定できる。
同氏は、その上で、AIエージェントの出力に対する信頼性が決して100%ではないことに注意する必要があるとしている。AIエージェントの出力を人間が判断する、または、正確な出力が得られるロジックをプログラムする、といった工夫が必要となる。
「AIエージェントに業務を任せ、人間が作業をしなくても良くなりそうという期待が高まったのが、2025年のはじめ。そして、一年を通して現実的な運用が見えてきた。改めて、人間の関与を前提とするヒューマン・イン・ザ・ループを考えるのが2026年のトレンドになるだろう」(本松氏)
また、2026年はAIに任せるべき業務と、そうでない業務の差もはっきり出てくる年になりそうだという。ここでも重要なのは、AIの得意な業務と苦手な業務の違いだ。
AIに任せられる業務の代表的な例が、顧客とのアポイントを調整するような、100%の正誤が定まっていない業務だ。アポイント調整には「絶対にこう」という正解がなく、複数の選択肢が考えられる。こうした業務はAIにより効果的に精度を高められる可能性がある。
一方で、上述した2つの理由から、正誤の判定がきっちりと定まっている業務を完全にAIに任せるのは難しい。AIエージェントが完全に業務を代替するのではなく、ドラフト作成までをAIが代行し、人間が承認するようなフローが必要となる。
SaaS is (not) Dead
特にバックオフィス業務の効率化を支援するサービスについて、「2026年はSaaSとAIエージェントと人間の協調が進むだろう」と本松氏は予想している。
従来のSaaSはルールベースでタスクを処理する機能を備えたものが多く、過去に正確に処理された企業内のデータを蓄積している。しかし、これまでは人間の業務負荷が課題となっていたことから、2025年にAIエージェントへの期待が高まった。
今後は、人間の業務負荷を軽減するために、SaaSに蓄積されたデータを活用するAIエージェントの実装が進むと考えられる。このとき、AIエージェントが参照するデータが蓄積されたストレージとしての価値が、SaaSの新しい存在意義になるだろう。
「起票のドラフト作成や承認時の一次チェックなどは、AIエージェントに任せることができる。しかし申請内容のチェックや承認、責任の所在として、業務フローの中に人間は必要。精度を担保するというSaaSの良さと、完璧じゃなくても業務を代替できるというAIエージェントの良さを組み合わせることで、人間は楽になりながら業務の精度を上げられるはず」(本松氏)
近年の急速なAIエージェントの発展により話題となった「SaaS is Dead」論だが、むしろSaaSは今、進化のタイミングにあり、AIエージェントという味方を得たことで高度化するチャンスであるとも考えられる。





