
「国民視点を持った政治家が少なくなっている」─。こう指摘するのは日本でパブリック・リレーションズという概念を広める井之上パブリックリレーションズ会長・井之上喬氏。同氏は戦前の満州生まれ。戦後80年を振り返りつつ、政治家や国民の倫理観の希薄化や教育の重要性、グローバル社会でのコミュニケーションの在り方などの見直しを求める。トランプ米政権をはじめ、世界が分断・分裂の様相を強める中で日本に求められる役割とは何か。
約80年間で約54人の首相
─ 今年で戦後80年という節目を迎えた一方で、足元の国際情勢は自国第一主義が台頭する混乱の様相を呈しています。現状をどう分析しますか。
井之上 グローバルな国際情勢の中にあって、日本の最大の問題は首相がコロコロ代わってしまうことでしょう。明治時代からこの傾向は続いており、おおむね1年ちょっとで首相が代わっています。特に戦後の1947年の片山哲内閣から約80年の間に首相を務めた人数は約54人に上っています。
─ それで在任期間の平均は1年半に満たないと。
井之上 再任も含めてです。ですから、4年間の任期を全うした首相は数えるほどしかいません。一方で米国をはじめとした欧米諸国では、大統領や首相は基本的には4年前後の任期を全うしています。なぜ日本の首相はすぐに代わってしまうのでしょうか。
その要因の1つは首相が解散したいときに解散できる権限を持っているからです。
しかも中には幹事長が解散を推してきたために、その風圧に負けて解散してしまったケースもあります。つまり、首相が解散権を持っているから、首相がコロコロ代わっているわけです。
今回の石破茂首相の場合は、解散は思い止まりましたが、辞任を決めました。大臣のポストも、もっと頻繁に代わっていますね。外務大臣も2年ほどで3人代わっています。先進国でそんな国はありません。
─ それだけ政権が安定していない国だというわけですね。
井之上 はい。国民も何となく気づいているのではないでしょうか。今の日本の政局が混迷していると。先の参院選を見ても、それが現実になっています。加えて、党の実力者が反対運動の狼煙を上げた、あるいは実力者同士が夜に会合を開いたといった政局にまつわる話ばかりがニュースになっています。
国民の関心のある重要な政策の中身に対する濃い議論がほとんど行われていません。つまり、「国民視点」を政治家が持っていないということではないでしょうか。
米国の心理学者であるアブラハム・マズローが「欲求5段階説」を説きました。人間の欲求が「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」の5階層に分類されている理論ですが、日本の中央政治の場合は、2つ目の安全の欲求の域から出ていないのです。
憲法第7条の改正
─ 具体的には?
井之上 首相が頻繁に代わるということは、それだけ頻繁に選挙が行われるということになります。そして選挙があれば、その選挙に勝つために候補者は自分の選挙区に戻って支持者に会い、頭を下げて支持を取り付けようとします。
自分が落選しないようにするために奔走する。つまり、一番大事なのは自分だということです。
─ それが安全の欲求に当てはまるということですね。
井之上 そうです。これが何を意味しているかというと、何か問題が起こっても、自らの保全に意識が向き、国民のことを考えられなくなるということです。
つまり、構造上、そうなってしまう枠組みなのです。今こそ、その枠組みにメスを入れなければ、失われた30年が取り返しのつかないことになります。
─ そのためには、どうすればいいと考えますか。
井之上 私は、まずは、天皇の国事行為を定めた憲法第7条を改正しなければならないと思っています。いろいろな議論がありますが、従前より政府は衆議院の解散については、「内閣が実質的に衆議院の解散を決定する権限を有することの法的根拠は、憲法第7条の規定である」との認識を示しています。
ですから、この憲法第7条を改正することで、少なくとも首相が頻繁に代わらない安定した政治ができるようになるはずです。ただその前提は、能力のある人が首相でないと成り立たないということになります。
では、何をもって能力があると言えるのか。今はどんなに能力があっても、先ほど申し上げたような枠組みである限り、まずは自分を守ることが優先されるわけです。
相手のこと、あるいは国民のことを念頭に置いた政治ができないということです。また、今の政治家は世襲が多い。心から政治家として国を変えたいという熱を感じさせる人が少な過ぎます。
最近の新興の政党には、そうした熱を持っている人が多いように見えますが、彼らには合理性に基づいた政策決定を行うことを期待したいところですね。
─ 若い人の中にも、そういった熱を持っている人はいるのではないでしょうか。
井之上 はい。本来であれば、そういう人たちがもっと政治家を志して世の中に出てこないといけませんね。そのためには、志のある若い人たちを1人でも多く輩出するため、小学校の高学年から政治リテラシーの教育をしなければなりません。
パブリック・リレーションズの意義
─ その際、自分は社会の一員であり、皆がお互いを助け合う存在であることを、もっと意識する必要がありますね。
井之上 その通りだと思います。そこで重要になる考え方が「パブリック・リレーションズ」です。これは、いざ自分が何かを成し遂げたいという目的を持って行動するときに倫理をベースにして、関わるさまざまな人たちと相互にコミュニケーションをとり、理解を求めていく考え方で、これが重要なのです。
常に自分の周りの環境を考えて、もし自分の判断が間違っていれば、修正することもできます。ただそれは倫理がベースにあるから気が付くことができるわけです。
その倫理をベースに政治リテラシーを学んでいけば、自分の判断や行動によって社会に良い影響を与えるか、悪い影響を与えるかを自分で導き出せるようになります。そういうことを考えられる子どもが育つようになるわけです。
─ そのパブリック・リレーションズの根底にあるのが価値観だと思うのですが、戦後80年が経ち、その価値観が崩れてきているのではないでしょうか。
井之上 そうですね。例えば権利と義務の関係を見ても、権利ばかりを主張し、義務をしっかり果たしていないケースも見受けられますからね。
社会に対する自分の責任は何なのかを考えることは非常に重要です。それも全てパブリック・リレーションズなのです。しかし、経済の世界でパブリック・リレーションズというと、「ステークホルダー」と誤解されます。
しかもステークホルダーといっても「利害関係者」と訳されてしまい、子供たちは目を白黒させるだけです。この場合の利害とは「相互主義」を意味しているのです。互いに助け合うという意味です。
以前、私の知っている米国の学者にパブリック・リレーションズの最適な日本語訳を尋ねたことがあるのですが、彼の訳した言葉は「絆」でした。
かつての日本の農村では村のお祭りがあるときは、地域の人々が皆協力し合って取り組んでいました。あるいは茅葺屋根の葺き替えをお互いに手伝ったり、稲刈りなどの農作業も共同で行ったりしていたわけです。
それが古来より日本が持っている素晴らしい素養ですが、ハイコンテクスト型の文化(コミュニケーション)環境です。
─ 以心伝心は日本人ならではの国民性でもあります。
井之上 そうですね。日本は言葉を必要としない「ハイコンテクスト」な文化の国でもあります。共有する文化コードが多いので、言葉をあまり必要としません。以心伝心もそうですし、阿吽の呼吸や忖度、同調圧力もそうですね。忖度や同調圧力にはマイナスの側面もあります。
ある組織の中で多数決をとる場合に、議題に上がったテーマに対して自分なりの反対意見を持っていながらも、周囲がどんどん賛成するために自分も賛成に手を挙げてしまう。
日本人一人ひとりはそれなりの〝個〟を持っていると思うのです。米大リーグの大谷翔平選手などを見ればよく分かります。
ところが、その個が組織の中に入っていくと、同調圧力に押し潰されてしまうのです。さらに問題なのは、そういった組織に倫理観が欠けてしまっている点です。
たとえ個がそれなりに有能であっても、倫理観のない組織の中では、その有能さも失われてしまいかねません。ですからまずは、個人が倫理観を学ばなければなりません。
その次に学ぶべきものはグローバル社会で通用するコミュニケーション能力だと思います。日本のハイコンテクストな文化と比較して言えば、「ローコンテクスト」な文化です。
これは他民族、多言語、多宗教を持つ欧米の文化であり、背景が異なるため、何度も言わないと相手の理解が得られないと考えて、言葉や身振りによる表現を重視します。
日本の外交のあるべき姿は仲裁外交
─ もし反対なら、しっかり反対表明をするというコミュニケーションですね。
井之上 はい。例えば企業の会議で「社長はそうおっしゃっていますが、これは私は違うと思います」といった話し方の問題とも言えるかもしれません。
変な言い方をすると、日本社会ではどうしても「あんな言い方をしたから気に入らない」と相手の言わんとする本質を捉えるのではなく、言い方が気に入る、気に入らないになり、社内で対立構造が生まれてしまいます。
日本の戦後教育では、そういったローコンテクストな文化を教えてきませんでした。ただ、大事なことはローコンテクストな文化であっても倫理観がベースにあれば、「自己修正」が可能であるということです。それがなければ、自分が正しいという主張をするだけになってしまいます。
─ つまりは「正・反・合」の考え方が重要だと。
井之上 その通りです。倫理観がベースにあると、相手とは敵味方といった対立軸で物事を考えることにはなりませんし、もし自分が間違えていると気が付くことができれば、必要なときに軌道修正できるはずだからです。
歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏も中国のような一党独裁国家は自己修正機能がうまく働かないと指摘しています。ユダヤ人も妥協はあまりしない民族ですが、その代わり、神との関係を非常に重要視しています。神との関係は絶対的だからです。
彼らは、人間は弱い生き物であるからこそ、神に回心する。これはカトリックも同じです。自己修正はそうした環境の中で育ってきたと考えています。
─ そういった教育の課題を含めて、国のカタチというものを考えるべきときですね。
井之上 そう思います。私は1944年の戦前生まれで、内務官僚だった父が満州国政府の警察署長や副市長を務めていたので、戦後、大連から日本に引き揚げてきました。あの戦争の記憶は今でも鮮明に残っています。そんな経験もあり、私個人としては日本の外交のあるべき姿は仲裁外交ではないかと思うのです。
明治維新以降、日本は戦争に身を投じてきました。その分、国内外で多くの犠牲者を生み出してきた。そして広島、長崎の筆舌に尽くし難い経験をしています。
その結果、日本は今の平和を得ています。核の脅威が増す今だからこそ、日本人は各国の紛争を仲裁できる資格と能力を持っていると思うのです。
紛争が起きれば直ちに仲裁に入り、「絶対に戦争はしない」よう双方を説き伏せ、必要であれば金銭的支援をする。その原資はODA(政府開発援助)の予算から手当てする。大切なことは、仲裁の過程をできるだけ内外に発表することです。日本のプレゼンスは高まります。
世界ではいま過剰移民やウクライナ戦争の長期化などで右傾化政権が誕生し、国際的な緊張が高まり、第三次世界大戦の足音さえ聞こえてきます。
今こそ、こうした国際情勢を見据え、国のカタチはどうあるべきかを一人ひとりがしっかり考えていかなければなりません。それが国を守ることにもつながるのです。