「体を動かすことが、体の健康のみならず心の健康にもつながる」を根底に、アシックスは今、ブランド体験価値向上を目指している。
8月5日に開催されたオンラインイベント「TECH+セミナー Marketing Day 2025 Aug. シン・ブランド戦略」で、アシックスジャパン マーケティング統括部 取締役マーケティング統括部長 狩野和也氏が明かしたのは、創業から76年間変わらぬ「Sound Mind, Sound Body」の理念を軸にした、現代的なブランド戦略の全貌だった。
創業精神が社名に込められた独自の企業文化
アシックスは1949年の創業から76年の歴史を持つ。創業者の鬼塚喜八郎氏が戦後復興期に「戦後の青少年が何か夢中になれるものはないか」と考え、「スポーツは心身をバランスよく育むことができる」という発想から事業を起こした。狩野氏は創業の経緯について次のように説明する。
「創業者が『健全な身体に健全な精神があれかし』という言葉に出会い、このラテン語である『Anima Sana In Corpore Sano』の頭文字を取って、アシックスという社名を付けました。つまり、創業の精神が社名になっているユニークな企業です」(狩野氏)
狩野氏が語るように、アシックスの根底には「体を動かすことが、体の健康のみならず心の健康にもつながる」という信念が一貫して流れている。ブランドスローガンである「Sound Mind, Sound Body」という言葉は、76年以上にわたって同社のあらゆる活動の軸となってきた。
3つの価値軸によるブランド構築
同社が中期経営計画で掲げるのが「Global Integrated Enterpriseへの変革」であり、その重点戦略の1つが「ブランド体験価値の向上」だ。狩野氏は、アシックスジャパンがこの戦略を推進するうえで、とくに下記に挙げた3つの価値を意識していると明かす。
「機能価値としてプロダクトのスペックを発信するだけでなく、それらを使っていただくことで、お客さまがどのような姿を目指せるのかをイメージしやすくすることが大切だと考えています。機能価値、情緒価値、そして未来に向けたストーリー。これらを統合し、国内市場におけるアシックスブランドのさらなる強化にチャレンジしています」(狩野氏)
厚底シューズ競争での復活劇
近年、大学駅伝ではカーボンプレートを内蔵した、いわゆる「厚底シューズ」が席巻している。そのなかでアシックスは苦戦を強いられ、これまでの高いシェアが徐々に低下。2021年の箱根駅伝では着用選手が一人もいない「シェア0%」という屈辱を味わった。「アシックスが消えた日」とまで言われたこの出来事が、大きな転換点となる。
「この状況を打破すべく、トップアスリートが勝てるシューズを開発する『C-PROJECT』が当時の社長直轄プロジェクトとして、2019年11月に発足しました。日々のアスリートとのコミュニケーションを通じてシューズの進化を繰り返し、2025年の大会ではシェアを25.7%まで戻すことができています」(狩野氏)
この復活劇の裏には、徹底した「機能価値」の追求があった。ランナーの走り方を「ピッチ走法」と「ストライド走法」の2タイプに分析し、それぞれに最適化したシューズを開発することで明確な差別化を実現したのだ。
しかし、挑戦はプロダクト開発に留まらなかった。自社レースの開催や試し履きの機会を創出し、プロダクトの優位性を実際に体験してもらう場を積極的に設定。さらに「ランナーとともに自己記録を目指そう」というメッセージで、選手の「情緒価値」に訴えかけるコミュニケーションを展開した。機能と情緒の両面からアプローチすることで、一歩ずつ信頼を、そしてシェアを取り戻していったのである。
現在では世界3カ所にトップランナーのトレーニングキャンプを設立。研究開発者とアスリートが日々コミュニケーションを取りながら、プロダクト開発を進めている。その成果は、世界6大マラソンの1つであるボストンマラソンでの契約選手の優勝というかたちで結実した。プロダクトのニュースとアスリートの活躍が相乗効果を生み、ブランド価値を再び押し上げている。
デジタルが可能にする「顧客に寄り添う」コミュニケーション
アシックスが次に目指すのは、デジタルを活用した顧客との永続的な関係構築だ。その中核を担うのが、会員制プログラム「OneASICS」である。
「OneASICSは、単に商品を購入いただくためのサービスではありません。お客さまはプロダクトの購入やポイント利用だけでなく、新商品の情報やイベント案内を受け取ることができます。購入で終わりではなく、永続的なサイクルでコミュニケーションを設計し、その拡充を目指しています」(狩野氏)
このサービスは、顧客とのエンゲージメントを高めるだけでなく、その動態データを需要予測や在庫管理に活かすことで、グローバルレベルでのオペレーション最適化にも貢献している。
さらに、アシックスは世界各国の主要なランニングレースの登録プラットフォーム企業をグループ化し、巨大な「ランニングエコシステム」を構築している。これにより、プロダクト購入からレースへのエントリー、トレーニング、そして次のレースへの挑戦というランナーのジャーニー全体に寄り添うことが可能になった。
「従来の接点は店舗や大会などがメインで限定的でした。しかし今では、ランナーのジャーニーに寄り添うことでエンゲージメントが高まることが分かっています。ランナーの心が動く瞬間を捉えてコミュニケーションを図ることが、ブランドに対する情緒価値を高めていけるものと確信しています」(狩野氏)
東京2025世界陸上、そしてその先へ
講演の最後に、狩野氏は今年9月に開催される「東京2025世界陸上」に向けた取り組みについて語った。アシックスはワールドアスレティックス(世界陸連)および日本陸連の双方とパートナーシップを結んでおり、大会スポンサーと日本代表サポートという両方の立場から大会に関わる。9月の大会期間中には2つの体験型イベント「ASICS MOVE STREET(アシックスムーブストリート)」、「ASICS METASPEED EXPERIENCE(アシックスメタスピードエクスペリエンス)」を開催する予定だ。
「ランニングを軸とする当社にとって、『走る』の原点ともいえる陸上競技は最も象徴的な舞台です。アシックスのテクノロジーやブランド価値を世界に発信していくことが、今回の重要なミッションだと考えています」(狩野氏)
単に競技をサポートするだけでなく、観る人、応援する人にも働きかけていきたいと意気込む同氏。「陸上競技を観て応援するだけでなく、『自分も走ってみたい』『体を動かしてみようかな』と思ってもらえるようなファンや参加者との接点をつくっていくことも、私たちの役割」だと語る。
それは、トップアスリートだけでなく、年齢や競技レベルに関係なくスポーツとともに生きる全ての人々を「ライフタイムアスリート」と捉え、寄り添おうとするアシックスの姿勢そのものだ。
創業から76年、その哲学をぶれることなく進化させ続けるアシックス。機能価値で市場を勝ち抜き、情緒価値で顧客とつながり、未来価値で社会に貢献する。同社が描く心と体の豊かさを届けるための挑戦は、これからも続いていく。
