「ググる」「ズームする」――。気が付けば、私たちはブランド名を動詞として使い、日常的な行為の一部にしている。かつてマルボロのカウボーイが象徴していた20世紀的な憧れのイメージ戦略は、現代の消費者に通用するのだろうか。
8月5日に開催されたオンラインイベント「TECH+セミナー Marketing Day 2025 Aug. シン・ブランド戦略」に、日本のブランド戦略研究の第一人者である中央大学 名誉教授の田中洋氏が登壇。デジタル時代におけるブランド戦略の根本的な変化について、「メタファー」から「経験化」「信号化」「理念化」、そして「動詞化」への進化という視点から解説した。
20世紀ブランド戦略の本質は「メタファー」による差別化
田中氏はまず、これまでのブランド戦略がどのような特徴を持っていたかを振り返った。その象徴的な事例として挙げたのが、世界的な成功を収めたマルボロのカウボーイ広告と、1951年にデイヴィッド・オグルヴィ氏が制作したハサウェイシャツの広告である。
「20世紀のブランド戦略の本質の1つは、ブランドをメタファーのかたちで表現することだった」と田中氏は指摘する。ハサウェイシャツの広告に登場するアイパッチをした男性のように、ブランドを特定のキャラクターやイメージと結び付けることで差別化を図る手法が主流だった。
この背景には、大量生産時代における製品の同質化がある。「シャツというカテゴリーは、見ただけではどこのブランドか分かりにくく、差別化が難しい。これはシャツに限らず、タバコや食品、飲料なども同様。だからこそ、広告による差別化が行われるようになった」と同氏は説明した。
つまり、20世紀は「ブランドイメージの時代」であり、競合ブランド間の実質的な差異がほとんどないなかで、メタファーを使って表面的な差別化を図ることが一般的だったのである。
21世紀の新潮流:「経験化」「信号化」「理念化」
デジタル時代に入り、ブランド戦略は大きな変化を迎えている。田中氏は、その変化の方向性を「経験化」「信号化」「理念化」という3つのキーワードで整理して示した。
経験化 - 価値の源泉は「体験」へ
田中氏が現代のブランドが直面している変化の1つ目として挙げたのが「経験化」だ。これは、ブランドから得られる「経験」そのものが価値の源泉となり、顧客が次の購買を決める重要な判断基準になるという潮流である。
この典型例が、GAFAMといった大手IT企業である。「GAFAMは、まさにオンラインで得られる『経験の質』を価値に変え、そこから収益を得ている」と同氏は述べる。Googleは優れた検索体験を提供する代わりに広告で収益を上げ、AppleはiPhoneの優れた使用体験によって次の購入へとつなげている。
Amazonが採用する「Working Backwards」という手法も注目に値する。これは、まず理想の顧客体験を定義し、それを実現するために今何をすべきか遡って考えていく手法である。「いかにストレスなく心地よい経験をECサイト上でしてもらうかを追求している」と同氏は解説した。
私たちが日常的に使うZoomが普及したのも、広告イメージによるものではなく、友人や同僚からの口コミでその利便性を知り、実際に使ってみて「使いやすい」という経験をした結果に他ならない。
「かつてのように広告を見て憧れを抱いて購入する20世紀的な在り方から、実際に経験したことをベースにロイヤリティが形成される21世紀的な在り方へと変化しています。とくに、所有から利用へとシフトするサブスクリプションのようなリキッド消費の世界では、この『経験』の重要性はますます高まっているのです」(田中氏)
信号化 - 完全情報化が進む消費者
第二の「信号化」は、顧客側から見れば「顧客の完全情報化」を意味する。田中氏は、2001年のノーベル経済学賞受賞者であるジョセフ・E・スティグリッツ氏の言葉を引用しながら、この現象を説明した。
「スティグリッツは、『経済学の基本モデルに従えば、ブランド名は存在してはならない』と述べています。顧客が製品に関する完全な情報を持っているならば、買う前にどちらが良いか分かるため、ブランド名は不要になるという理屈です。現実はそこまで極端ではありませんが、近い現象は起こっています」(田中氏)
現実的な例として、同氏は処方箋薬を挙げる。医師が処方する薬で、消費者がブランドを選ぶことはほとんどない。これは、効能が分かれば十分なためだ。
同様の現象は、4年前に大ヒットした「ヤクルト1000」にも見られる。「消費者としては『ヤクルト1000は熟睡によい』という『信号』さえ知っていればよく、ブランドイメージは二の次」と同氏は指摘する。
ChatGPTのような生成AIも、その便利さを一度「経験」し、何ができるかという「信号」さえ分かれば十分で、広告によるイメージ訴求は必要ない典型例だという。
こうして科学技術の進展を背景にブランドの「信号化」が進む時代においては、マーケティングの役割も変化する。
「重要なのは、ユーザーにまず経験してもらうための『入り口』をいかにつくるかです。初期無料化、トライアル、口コミ、あるいはPayPayが展開したような地道な営業活動など、最初に汗をかいてでも最初の接点をつくり出し、その価値を体験してもらう。そこから普及が始まっていきます」(田中氏)
理念化 - ブランドの「哲学」が問われる時代
第三の「理念化」について、田中氏は「効果効能といったメリット以上に、ブランドの背景にある理念が問われる時代になってきている」と説明する。
その象徴的な例がオーガニックワインだ。
「正直なところ、味だけでオーガニックかどうかを区別することはほぼ不可能です。にもかかわらず人々が選ぶのは、『有機農法で、農薬を使わずにつくられた』という背景や理念に共感しているから。私たちはワインそのものを飲んでいるのではなく、その理念を消費しているのです」(田中氏)
国内企業の成功事例として、同氏は大阪のスタートアップ企業・I-neのヘアケアブランド「BOTANIST」を挙げた。「このブランドのコアコンセプトは『植物の生命力』であり、『ボタニカルライフスタイル』を提唱している。これは具体的な効能というよりは、まさに『理念』」と説明する。この理念が消費者に支持された結果、I-neは世界の巨大メーカーがひしめくヘアケア市場で国内第2位にまで成長した。
海外事例では、ユニリーバの「Dove」が挙げられる。同社が長年続ける「リアルビューティー」のキャンペーンでは、あえてシミのあるモデルを起用するなど、画一的な美を押し付けるのではなく一人ひとりの多様な美しさを肯定。「あなたらしさが、美しさ」という一貫した理念を発信し続けることで、多くの消費者の支持を獲得している。
このようにブランドの理念が重要になる一方で、注意も必要だと同氏は忠告する。
「ただ流行っているからといってSDGsなどを掲げるだけでは、他社との差別化にはなりません。ブランドの理念化を目指すのであれば、自社独自の揺るぎない理念を構築することが不可欠です」(田中氏)
その先にある「動詞化」の未来
田中氏は講演の最後に、さらなる未来への展望として「ブランドの動詞化」という概念を提示した。
「『ググる』『ズームする』、最近では生成AIツールのPerplexityを使うことを『Perpる(ぱーぷる)』というそうです。このように、ブランドが名詞としてだけでなく、行為や体験を表す『動詞』として使われるようになっています」(田中氏)
従来、商標管理の観点では「ブランドの動詞化は価値の毀損につながるため避けるべき」とされてきた。しかし同氏は、「これからの時代は、むしろブランドが日常生活の一部となる『動詞化』を歓迎すべきではないだろうか」と提案する。
企業事例として、日本電気(NEC)の事業ブランド「BluStellar」が紹介された。これは特定の商品ブランドではなく、NEC自身が組織変革を実践するなかで生み出した価値創造モデルの総称である。
「社内で実践し、成功したモデルを顧客にも提供する。つまり『BluStellar』は、NECにとっての価値創造の実践そのものを意味する『動詞』的なブランドといえます」(田中氏)
デジタル化が進むなかで、ブランドは単なる商品の識別記号から、人々の生活や文化に深く根ざした存在へと進化している。マーケターにとって、この変化を理解し、新しい時代に適応したブランド戦略を構築することが喫緊の課題となるだろう。
