【混沌期の中、日本の針路を探る 】元防衛大学校長・国分良成 「米国ができない部分を日本がどう補うか。そのためには日本が強くなければなりません」

国のカタチとはどうあるべきなのか─。「混沌期でも多角的な視野を持ちながら、何らかの形で国同士をつないでいかなければならない」と国際政治の専門家で防衛大学校長も務めたアジア調査会会長の国分良成氏。分断・分裂の時代にあって「大事なのは〝人〟、つまりは国民。その国民の集まりが国家である」と話し、「日本自身も強くなければならない」と強調する。日本のあるべき姿とは?

政府に頼りすぎてはいないか?

 ─ 前回のインタビューでは利益と力だけを求める今の国際情勢下での日本の役割にソフトパワーの発揮があると指摘していました。世界経済が混沌とする中で国をどう定義しますか。

 国分 難しいテーマです。ただ言えることは、民間や経済の領域は時代の変化に合わせて変わってきましたが、官僚、つまり行政の世界はあまり変わりませんでした。

 世の中の変化よりも、法律でどう既存体制を守るかという発想に立っていたからです。ですから、規制緩和が進まなかったという今の現実があると言えると思います。

 もちろん、官僚たちも苦労に苦労を重ねて今の統治国家をつくり上げました。その功績は十分にあると思います。それと民間との協力があって明治政府以来の経済発展があったわけですからね。

 ただ、これからはクリエイティビティが求められます。言い換えれば創造的破壊ですね。

 ─ それは官僚だけに求められるものではありませんね。

 国分 はい。我々、民間も政府に頼りすぎている面がありますからね。国が助けてくれるのではないか、政府が社会保障などで給付し続けてくれるのではないかと。

 しかし、それに限界があることは国民も気づいています。そういう現実が徐々に明らかになっているから、皆が不安を感じるようになっている。

 ─ 加えて、少子高齢化の流れも避けられませんね。

 国分 そうは言っても、まだ人口が1億人を超えている段階です。

 ですから、いま求められていることは、まず、なぜこれまでの政策が失敗したのかを検証することです。本来であれば、それを教訓とした上で、次の新しい目標と方策を考えるべきなのです。「失われた30年」の検証、反省、教訓などをもっと議論すべきなのです。

 ─ 日本の低迷の原因は何だったと考えますか。

 国分 最も大きいのは前例踏襲と画一主義ではないでしょうか。高度経済成長を生み出した1960年代以降の大成功の余韻にいまだに浸りすぎているのではないでしょうか。

 今の大阪・関西万博もいいのですが、何となくこれまでと同じような近代主義に基づく国威発揚の匂いを感じてしまいます。万博自体がすでに時代に合わなくなっているのかもしれません。

クリエイティブの力がある!

 ─ 日本には新たな創造力が潜在しているのでしょうか。

 国分 明治維新以後、常に日本は欧米を真似てきました。新しいものをつくる最初の一歩は真似ることです。「学ぶ」とは「真似ぶ」ですからね。何もないところから新しいものが生まれることはありません。

 日本は様々な国や企業から発想や技術を学び、それらを組み合わせて新しいものを生み出してきたのです。日本にはそういったクリエイティビティがありました。

 一方で中国もある程度、日本と同じような歴史を辿ってきましたが、そもそも中国には日本の製造業と違ってベースとなる基盤インフラが弱い。そこに中国の脆さがあると思います。

 ─ すると、日本の企業は潜在力を持っていると。

 国分 基礎は持っていると思います。80年代に米国企業が日本になぜ入ってくることができなかったのか。それは日本に優秀な企業が多すぎたからです。

 日本的なシステムや商取引の中で成長し、銀行も商社も10社以上あったので、他の国の企業はどこも入ってくることができませんでした。結果として日本の中で日本企業同士が鎬を削り合い、淘汰されていったわけです。

 逆に言えば、基盤が岩盤になっている。クリエイティブな応用の領域で新しいビジネスをつくっていくことが弱い。そこで政府に支援してもらおうとすると、かえって話がおかしなことになってしまう。

 ─ 国分さんの母校で、教授を務めていた慶應義塾は1858年に啓蒙家の福澤諭吉が欧米に負けない日本をつくらなければならないという使命感を持って創立しました。時代が福澤を生んだということでしょうか。

 国分 そういった時代背景もあったと思います。

 もちろん、時代を経て福澤翁をそのように評価するという面もあるでしょう。ただ、福澤翁のバックグラウンドには強烈なハングリー精神があったということです。

 ─ 明治維新の担い手も、ほとんどが下級武士でした。

 国分 そうです。身分的に報われていなかった階級の人たちが動き出したわけです。では今はどうか。〝報われない環境〟という「知的な貧困」の中から立ち上がろうとするハングリーさがあるかどうかです。

 この場合の「報われない」という意味は、財産の面で恵まれなかったという意味だけではありません。知的にも報われなかったという意味です。ただ、そういう環境の中でも知的欲求を追い求め、クリエイティブに物事を考えている人たちはたくさんいると思うのです。

 新たな時代精神を創造するに際して、こうした人材を大事にしなければ〝国のカタチ〟はできません。

日中関係に奔走した小林陽太郎

 ─ 我々が自らの国をどう捉えていくかということですね。

 国分 そうですね。国と言われて何を連想するか。富士山なのか、京都なのか、それとも国会議事堂なのか。重要なのは 〝人〟です。つまりは国民です。〝国は家〟なのです。私は防衛大学校の校長だったときによく「国家国民のために」という言葉を学生に話してきました。

 では、その国家とは何か。それを徹底して議論しました。議論の行きつく先は、要するに人、国民です。国民の集まりが国家であると。だからこそ、あの人のために頑張ろうという精神が宿ってくる。それこそが国のカタチではないでしょうか。

 これは教育だけの問題ではありません。まずは自由な発想ができる土壌があるかどうかということです。これまでも自由な発想や個性を尊重すると言いながらも、ある面では個性を潰すようなこともずいぶんあった。そして、その責任を政府や政治に求めてきました。

 ─ よく国が悪い、政治が悪いという声を聞きます。

 国分 ええ。しかし、そういった政治家を選んでいるのは我々国民です。ですから、我々にも反省すべきところがあるのです。日本経済団体連合会や経済同友会といった財界の発言力も、かつてに比べると、かなり小さくなった感があります。

 ─ 過去にも公(パブリック)を考える民間人はたくさんいましたからね。この民が公を支える。民が公と一体なのだと。

 国分 そうです。例えば、日中関係の発展のために、1984年に日中双方の有識者が幅広い分野に関して議論し合う「日中友好21世紀委員会」が発足し、その延長で2003年に「新日中友好21世紀委員会」が設立されました。

 私は日本側事務局長として日中関係の在り方をまとめ、それが後に「戦略的互恵関係」につながりました。06年に当時の安倍晋三首相と胡錦濤国家主席の間で使われたのが最初です。

 このときの日本側座長が元経済同友会代表幹事の小林陽太郎さん(当時、富士ゼロックス相談役最高顧問、1933年―2015年)でした。小林さんの凄さは委員会でも大いに発揮されましたが、私はそれ以前96年の第3次台湾海峡危機の後にも感じたことがあります。

小林陽太郎

民間人でありながら日中関係の構築に尽力した小林陽太郎氏 (富士ゼロックス元社長)

 ─ 日中関係に大きな緊張感が走ったときですね。

 国分 そうです。中台関係も非常に荒れていました。96年は李登輝さんが台湾総統選挙で総統に選ばれた年になるのですが、当時は中国の軍事演習が活発化し、台湾問題も日中関係も相当緊張しました。

 その数年後、小林さんはそういった環境下で私財を投じて日中の民間同士の対話を実現しようと動いたのです。

 小林さんは台湾問題を落ち着かせるためには、台湾とだけ対話をしていても解決できないと考え、台湾の実情を中国にも伝える必要があると考えました。そこで民間の有識者で「台湾会議」を開き、中国側の要人たちにも参加させたのです。

 日本からは駐中国大使を終えたばかりで台湾通でもある谷野作太郎氏、ジャーナリストの船橋洋一氏、東京大学教授の若林正丈氏や田中明彦氏などに声をかけ、私が事務局長になって、この会議は数年間続きました。

 会議では中国側は激しく主張しますが、台湾の内情を知っているようで都合のよいところばかりを見ているのではと日本側も反論したり、毎回率直で激しい議論がありました。

 小林さんはその溝を何とか埋めたいと考えた。「台湾会議」は日中交互に開催し、かなり諸経費もかかったはずですが、小林さんがほぼ全額を工面してくれました。つまり、国を意識した経済人だったわけです。

国家間をつないできた民間

 ─ 日本にはそういう経済人が数多くいました。日中問題で言えば、西日本新聞の前身の一つである福陵新報の創業者である頭山満(1855年―1944年)や日活創設者の一人でもある梅屋庄吉(1869年―1934年)などです。

 国分 日中関係は深いですね。そう考えると、国家間の関係づくりは民間の力も必要だと分かります。もちろん、政府の力が必要です。しかし、それだけではないということです。戦後から1972年の日中国交正常化が実現するまでの間も民間が両国をつないでいたのです。

 ─ 東洋製罐創業者の髙碕達之助(1885年―1964年)もそうですね。

 国分 はい。こういった民間の力を当時の通産省などもバックにしていたわけです。ですから、今のような混迷期でも国・行政・企業・個人それぞれに何らかの役割があるのです。台湾有事の危険性はもちろんあります。

 トランプ政権の米国も今後どのような行動をとってくるか予測することができません。その中でも多角的な視野を持ち、様々なレベルで国同士をつないでいかなければなりません。

 特に日露戦争以降の日本は、どうしても神がかりになってしまった側面がありました。国の論理や面子などが絡んだ交渉では、ある種の打算や妥協もあるでしょう。当時の日本はそういった部分が一本調子になってしまったのです。そこで多様性も失われてしまった。

 ですから、今後大切になってくるのは相対性と現実主義です。全体を見通す視座を持った上で自分たちが何をなすべきかという思考です。戦後の日本は理想主義ばかりが前面に来て平和主義に傾きました。米国が守ってくれているにもかかわらずです。リアリズムの視点を欠いてしまったということです。

 米国優先から完全に脱却することはできません。経済的にも安全保障の面でもそれは不可能です。今必要なのは、米国依存に頼るだけでなく、米国ができない部分を日本として何ができるかを考えることです。

 そのためには、まず日本自身が自らの強さをつくり出していかなければなりません。 

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