「この40年間を振り返ってみると、自分はいつもいろいろな人から教えてもらい学べる機会に恵まれていました」と語る魚谷氏。次世代を担うリーダーの人財開発施設を創業・銀座の地に創設し学長を務める。「自分がいろいろな人に教えてもらったように、今後は自分がお返しする番」と語る魚谷氏の思いとは─。
恩師との出会いがあって…
─ 今年12月末で会長CEOを退任するという発表が出ましたが、魚谷さんのこれまで歩んできた道、経験を聞かせてくれませんか。高校は大阪星光学院出身ですよね。
魚谷 はい。わたしの郷里(奈良県)で中学のときに担任だった蔵田尚先生が勧めてくれたのがきっかけです。私学でお金もかかるので、地元の公立高校にと思っていたのですが、その先生が「君の性格からすると、星光学院みたいなところのほうが絶対合う」と言ってくださって。奈良を出てもっと見聞を広げて、将来のことを考えたほうがいいと勧めてくれました。
─ ご両親はそれを聞いて何て言ったんですか。
魚谷 先生がそう言っているのだからぜひそうしてみたらと。
験担ぎで受験番号も1番を取りました(笑)。願書申込の日には6時に行って待っていたら、守衛さんに「8時まで門は開きませんからまたあとで来てください」といわれて、30分ぐらい時間をつぶしてもう一回行ったら、まだ誰も受験生はいなくて、バンッと「1」のはんこが押されたのです(笑)。
─ 実際入ってみてどんな高校生活でしたか。
魚谷 ミッション系の男子校で、奈良から電車に乗って1時間半かけて通っていました。ここで型破りで魅力的な英語の先生との出会いが、今に大きな影響を与えているんですよね。
英文法の鬼と言われていた柴田道雄先生という知識が豊富な先生と出会いました。高校生のわたしはその先生にとても魅力を感じていました。
それで英語が好きになって、「魚谷、この参考書をやっておけ」「これよく読んでおけ」と、学校の授業以外の宿題を出されて沢山やっていました。
その先生のなんともいえない独特の魅力で一層勉強する気になりました。「よし、やったろう」と思って月曜日に宿題を持っていくと、「おお、ようやってきたな。今度はこれやってみ」と次から次へと宿題を出されて。
─ 褒め上手な先生でもあったんですね。
魚谷 そうなんです。卒業の頃「3年間を振り返って質問に来たのは、学年200人の中で君が一番やったな」と言って英語への情熱を褒められましてね。それがきっかけでその後も英語を勉強したい、アメリカへも行ってみたいと思うようになったのです。自分がグローバルで仕事をする1番の基になるきっかけは柴田先生だったと思っています。
─ それもあって、のちにコロンビア大学の大学院にも留学されたんですね。
魚谷 はい。人生というのは人との出会いのおかげだと本当に思います。星光学院を卒業した後は同志社大学の英文学科に進んだのですが、ここでも明石紀雄先生という助教授に出会いました。
「きみたちには生きた英語を教えたい。アメリカやイギリスの日常で飛び交うような、もっと生き生きとした表現を学んで欲しい」と言われて、当時非常にわくわくしましたね。この2人の先生がわたしの英語への興味にとても大きな影響を与えたのです。
─ 幼少期はどうだったのですか?
魚谷 小学校3年生の担任の勢田冨夫先生も印象的で、道徳的で倫理的なことを言われる方でした。「大きくなったら社会の役に立ちなさい」とよく言われていたことを覚えています。その先生が転勤されて別の小学校に行ってしまったあともそこへ遊びにいって、ふたりでよくいろいろな話をした思い出もあります。
─ そうした生き方を説く魅力的な恩師がたくさんいたんですね。
魚谷 はい。やはり青春期の人格形成期にどんな人と出会うかで大きく変わります。小学校、中学校、高校、大学と人間的に成長期のときに、大人の言葉がけ一つで人生は変わるものだと思っています。
今、こうやってここにいるのは、これまで何人もの方々がわたしにいろいろ言葉をかけてくれたこと、指導いただいたこと、時には厳しい言葉をいただいたこと、それが今の自分の糧になっていると思っています。
両親との関係
─ ご両親はどんな教育方針でしたか。
魚谷 父は奈良県五條市出身で、ちょうど太平洋戦争の時期にまだ十五、六歳でしたから、志願して少年飛行兵になって訓練をしていたようです。
そういう自由がない時代を生きているので、息子のわたしには自分がやりたいことをやれと。だから東京に出るという時も、アメリカに留学したいという時も、止められたことは一度もありません。費用もかかりますがなんとかするから行ってこいといってわたしの夢を叶えてくれました。
─ お父さんは若い頃から死と隣り合わせだったからこそそういう思いがあったんですね。
魚谷 ええ。奈良に航空訓練所があって、だいぶ昔に聞いた話では、最初はグライダーに乗る訓練をしていたと。そうしたら、自分のあとの機が墜落して亡くなったとか、そんな話も聞きました。本当に日々死と隣り合わせで、神戸の街を歩いていたら空襲があって、防空壕に逃げ込んで、外に出た時には多くの人が死んでいたのを見たと、命からがら助かったという話は時折聞かされました。
一方、母は父と知り合ったころに病院の看護師見習いのような仕事をしていました。当時でいえばまだ働く女性は珍しい時代でした。母のそういう話を聞いていたので、女性が生き生きと仕事をすることはわたしにとっては当たり前のことです。
母の気持ちとしては、本当はわたしに奈良の地元のどこか企業に勤めて、近くにいて欲しかったのだろうと思いますが、そうは言わずにわたしの希望を尊重してくれる、そんな母でしたね。
ライオンに入社し悩みながら日々奮闘
─ 新卒ではライオンに入社されましたが、ここでの仕事はどうでしたか。
魚谷 海外に行きたかったので留学制度があるライオンを選びました。面接のときも最初から「僕を留学させてください」と熱心に伝えました。そういうことを言っていると、なんか今年の新入社員で変なやつがいるなと。魚谷とかいうのがやたら留学したいといっているというふうに、人事本部長に認識されていたようです。
消費財メーカーではどこもそうですが、最初は現場を勉強するために全国の営業の仕事にみんな配属されます。ですから最初にわたしは大阪の営業現場で働くことになりました。
そこでわたしが留学の夢を持っていると言うと周りの先輩は(当時は)「魚谷、おまえな、留学は東京本社のエリートが行くもんだ。大阪の現場で汗流しているような者で、今まで行った者は誰もいない」と。確かに調べたら1人もいなかったのです。「だから諦め。無理無理」と大阪独特のジョークのノリできついことを言われました。
若い時はすぐに影響されますから、そう言われるとここにいたら自分の夢が実現できないかもしれないと思い始めて、入社して半年も経たないうちにどうしようかなと本当に悩むようになったのです。それで、経験が豊富な年配の方に相談をしてみることにしたのです。
─ どんな方でしたか。
魚谷 上場企業の役員の方ですね。わたしの予想では、そういう方から見れば君は甘いなと。社会に出たばかりの若いやつが何を言っているんだと絶対に怒られると思っていました。
そうしたら、その方の反応が「夢を持ちながら日々自分の在り方に対していろいろ思い悩むのは、君、いいことだよ」とおっしゃったのです。ある意味、「えっ?」と驚きました。
─ 頭ごなしに叱らなかった、むしろ聞いてくれたと。
魚谷 そうなんです。でも「ただし、君はまだ社会に出たばかりで本当に社会のありようとか現実を十分理解しているのかというと、まだそうではないぐらいの期間だよね。だったらこうしないか。これから1年間、今与えられている仕事を頑張ってみなさい。それで1年後にもう一度会おう。そのときにも今と同じで夢は実現できませんというのであれば、その仕事を変わるなり、次のことを考えたらいいじゃないか。1年間、今ここでやってみても無駄にはならないよ」と言われました。
その言葉で自分の心にあったわだかまりがスッと消えて、楽になったのです。「1年間だからそんなに思い悩むことはないよ」と言ってもらいそれから仕事に一所懸命励むようになったのです。そう気持ちを切り替えたら面白いことに営業成績も上がっていきました。
─ 人生の先輩の言葉一つで前向きになれたということですね。
魚谷 ええ。そうこうしていたある日、大阪市内の得意先の問屋さんに朝行ったときのことです。そこの社長に「魚谷君、君ちょっとおいで」と呼ばれて社長室に連れていかれました。社長に呼ばれるなんて初めてですし、何かなと緊張しながら行ったら、その方がスポーツ新聞に書いてあった「一球入魂」の大きな見出しを指さして、「最近の魚谷君にこれを感じるよ」と言ってくれたのです。
その社長さんいわく、最初は君は声は小さいし、やる気がなさそうな雰囲気だし、正直大丈夫かと。うちの社員もみんな最初はだめだと言っていたと。でも途中から雰囲気が変わって、とても前向きに、声も大きくなり、やる気が出ていて、みんなの評判も上がっている。売上も伸びていると褒められました。このときは天にも舞う気持ちでした。
自分が変わることで周囲も変わっていった
─ 仕事に前向きに取り組むようになってから周囲の評価も変わっていったと。
魚谷 ええ。そのときにわたしは「そうか」と気づいたのです。必死に努力していれば、どこかに見てくれている人はいるんだなと。
新入社員のわたしは当時6時過ぎになったら週に2回、「英会話学校に行くのでお先に失礼します」と先輩社員を前に、汗をいっぱいかきながら勇気を出して先にオフィスを出ていたのです(当初は生意気な奴だと言われていました)。ですが得意先の社長に褒められる頃には、「もう6時過ぎてるぞ、早く行ったほうがいいぞ」「車で送っていってやろうか」と周りの先輩たちが言ってくれるように変わったのです。仕事に一所懸命取り組んでいる姿を見てくれたのか、皆が、大阪の営業所から初めての留学生を出したいという気もちで、私の留学の夢を実現することを応援してくれるようになりました。
─ やはり必ず誰かが見てくれているということですよね。
魚谷 はい。それから3年目に、東京本社の人事部から留学試験を受けるようにと声がかかったのです。普通は5年経たないと駄目だけど、最初から君は熱心に言っていたからと。それで翌年論文と社長面接で合格となり、念願の社費留学の夢が叶いました。
その後もたくさんの方にご指導をいただきました。特に日本IBM元社長の椎名武雄さんがわたしのメンターでした。
─ 日本IBMの椎名さんの「セル・IBM・イン・ジャパン、セル・ジャパン・インIBM」は見事な対話の哲学でした。
魚谷 そうなんです。わたしはその言葉にとても共感していたので、日本コカ・コーラの社長就任パーティーでの乾杯のあいさつを椎名さんにお願いしに行きました。
「椎名さんのあの言葉に感銘を受けています。『セル・コカ・コーラ・イン・ジャパン、セル・ジャパン・イン・コカ・コーラ』、同じ志です」と言ったら快く引き受けてくれましてね。
こうやって振り返るとやはりいろいろな方の支えがあってきたのだと。今度は自分がその役割を果たすべきときが来たと痛感しています。
─ 今度は自分が返していく番だということですね。
魚谷 ええ。かつ、去年体調を崩しまして、人生何が起きるかわからない。そうふっと思ったわけです。ですから2年前に発表している通り、わたしは今年の末で経営の一線は退きます。ここからやるべき使命は、次の若い世代の方々が世界で活躍するようなリーダーになることを支援することではないかと思っています。
─ 具体的に考えていることはありますか。
魚谷 資生堂の中でも、外部の方々に対してもそういった恩返しをやっていきたいと思っていて、まずは社内の人財育成の場所として「Shiseido Future University」というものを去年つくりました。
今、そこの学長も兼ねているのですが、国内外の資生堂社員を、将来この会社のリーダーを担うような人財に育成したいと思っています。
社外においては、過去から年間10回以上、一橋や早稲田のビジネススクールなどで特別講師を務めています。最近はアメリカのコロンビア大学にも講師として行っています。
─「Shiseido Future Univer sity」で目指すことはなんですか。
魚谷 未来をつくることです。施設には1872年の創業以来の、創業者の言葉、最初の商品、看板、ポスターなど、創業の精神を感じられるものを展示しています。創業の地・銀座でそれを見て、触れて、そのDNAを感じてもらって、そしてそれを元に資生堂の未来はどうあるべきかを議論する場にしています。国内外の多様な社員が情熱的に語り合い、企業の成長と自己の成長を実現する場にしていきたいと思っています。
そして「世界で勝てる日本発のグローバルビューティーカンパニー」という私の夢を実現する未来の経営リーダーが沢山輩出されることを期待しています。