『泥棒市場』を開業した理由は何ですか? ドン・キホーテ創業者・安田隆夫を直撃!

並々ならぬ熱意と努力で

 ─ パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス(PPIH)は、もともと安田さんが29歳の時に、東京・西荻窪で18坪の雑貨店『泥棒市場』を開業したのが始まりです。この奇抜な店名を考えた理由は何だったのですか。

 安田 当時はお金もありませんから、宣伝費などかけられません。しかも、お店も小さかったので『ドン・キホーテ』のように長い名前は付けられない。

 そういうことで、4文字ぐらいでインパクトのある言葉を考えました。文字通り、自ら看板に泥を塗る『泥棒市場』ということで強烈なインパクトを出そうと思いまして、お客様が面白がって来てくれるようになったのです。

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 ─ 失礼ながら、改めて考えても普通の人はつけない店名ですよね(笑)。

 安田 でしょうね(笑)。有難いことにお客様は来てくれましたけど、従業員が苦労したそうです。親御さんから「お前はどこで働いているんだ?」と聞かれて、『泥棒市場』と答えたら、そりゃあ、「大丈夫か?」と思いますよね(笑)。だから、従業員は、親には名前を伏せて働いてくれていたようです。

 だから、メチャクチャですよね。でも、わたしは当時まだ29歳で、若くて体力がありましたからね。毎日死ぬように働いて、それこそ夜11時に店を閉めてから、翌朝の陳列を全部見直して、品出しから何から全部1人でやりました。

 誰も手伝ってくれる人などいませんから、気づいたらオープンの翌朝10時が近づいてくるんですよね。家に帰るのも面倒なので、夏場などは店内に段ボールを敷いて寝ていましたよ。それで10時近くになったら起きて、顔を洗って、シャッターを開けてやっていました。

 その意味では、立ち上げの時は並々ならぬ熱意と努力でメチャクチャやりました。そうでなければ、成長などできませんからね。

 ─ 今では「ブラック企業」だと言われかねないような状況だったと思うんですが、ファーストリテイリング会長兼社長の柳井正さんにしろ、ニトリホールディングス会長の似鳥昭雄さんにしろ、成功している創業者は皆、そこから這い上がった人たちばかりですよね。

 安田 ええ。メチャクチャやらなければ、現状を突破することなどできませんから。

 特に中小・零細企業の創業時なんて、みんな辞めてしまうので、一人で何から何までやるしかない。しかも、われわれは何か特許やすごい圧倒的な技術がある会社ではない。無一文から会社を立ち上げたのですから、他の人の何倍も頑張って働くしかありません。でも、そういう時代があったから今の当社があるのです。

 後にうちのお袋から聞いた話ですが、親父が岐阜から上京してきて『泥棒市場』を見に来たら理解不能だったと。だから、よく「あいつが何か変な仕事を始めたみたいだけど、うまくいくはずがない。時間の問題で必ず店はつぶれる」と言って、2人で嘆いていたそうです。

 ─ やはり、ご両親は心配だったでしょうね。

 安田 ええ。お袋もお袋で、当社がそれなりに成長して、上場も果たした頃でも、近所の八百屋さんがつぶれたという話を聞くと、お前の会社は大丈夫かと真剣に心配していました。個人経営のお店と上場企業ですから、わたしにしてみれば、全然比較するレベルが違うのに、お袋はずっとそんな感じでした。

 それこそ、今では長崎屋やユニーは当社の傘下になったわけです。実家のある大垣にはユニーがありますから、まさかその店を自分の息子が買うことになるとは、お袋は夢にも思わなかったと思います。

 ─ 安田さんのお父さんは商売をやっていたんですか。

 安田 いえ、親父は工業高校で技術の教師をしていまして、真面目一徹な堅物でした。家にいる時も複雑なコードをいじっているような人で、わたしとは正反対。お袋は頭の回転が速い人で、変化対応がうまくて親父とは全然違う性格でした。

 ─ そうすると、ご両親はある程度、安田さんが成功するところまで見届けることができたんですか。

 安田 ええ。上場したあたりまでは生きていましたから、少しは安心できたと思いますが、それでも何をやっているのかは2人とも最後までよく理解できていなかったと思います。

 ─ それは寂しいですね。

 安田 いやいや、わたしは若者向けに振り切った店をつくったんです。ですから、うちの両親が理解など、できるはずありません。そんな年寄りが理解できるような店など、繁盛するはずがありませんから(笑)。

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