戦国時代に勝ち上がった武将たちはいずれも闘いを有利に導く手段として情報を活用した。いかに早く正確な情報を大量に仕入れ、それを戦略に落とし込むか。偽の情報によって相手を攪乱することに腐心し、物理的な戦いをおこなう前に、できるだけ戦況を有利な方向に導くために情報戦を用いた。現代でもそれは変わらない。

今回、「大坂の陣」において戦国武将がかつて取った戦略をサイバーセキュリティの視点から検証する。前編では、「城攻めの種類とサイバー攻撃 」「大坂冬の陣に向けた攻撃準備」などについて説明した。後編では、「大坂冬の陣で展開された『認知ドメイン』の攻撃」「物理戦と情報戦のハイブリッド戦となった『大坂夏の陣』」などについてお届けする。

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大坂冬の陣で展開された「認知ドメイン」の攻撃

かくして1614年に大坂冬の陣の幕は切って落とされ、徳川勢は大坂城を四方から取り囲む形となる。しかし、攻撃を熟知した守りのための城である大坂城を攻めるのは難しく、また籠城戦となると大坂城には4年以上持ちこたえられる兵糧の備蓄があった。そこで家康は「認知のドメイン」に該当する戦術を取った。

その一つ目が「偽手紙」である、家康は、大坂方の部下である真田幸村(信繁)、長宗我部盛親、毛利勝永といった大将の筆跡や花押を真似て、家康の誘いに応じて味方するという旨の偽手紙を送った。これはサイバー攻撃で言えば、詐欺メールやビジネスメール詐欺に該当する。

二つ目は「大砲」である。家康側は中口径のカルバリン砲4門、小口径のセーカー砲1門、国産の大筒100門を装備し大阪城に向けて撃たせた。当時の大砲は命中率が悪く飛距離も短かったが、その音響効果は特に淀殿をはじめとする女性たちに対して強い恐怖感を与えた。これも心理戦の一つといえる。

そして三つ目が「地下トンネル」である。家康は松平正綱、藤堂高虎、角倉了以など工夫300人に対し大坂城への坑道を掘るよう指示していた。そして、その様子を和議のための使者として送られた初様(淀殿の妹)に見せ、同時に「坑道を本丸の下まで掘り進めて、爆薬をしかける」というフェイクニュースを流している。

フェイクニュースには、悪い意図はなく単に誤情報をばら撒いてしまう「ミスインフォメーション」、悪い意図があり意図的に拡散する偽りの情報である「ディスインフォメーション」、悪い意図があり意図的に拡散する真の情報である「マルインフォメーション」の3つに分類できる。

家康はディスインフォやマルインフォを屈指することで、冬の陣を講和まで持ち込んだ。講和の結果、惣構えや二の丸の堀は埋め立てられ、さらに二の丸や三の丸の構造物は全て破壊撤去され、本丸だけを残すことになった。大坂城は情報戦だけで要塞としての防御力を全て失ったのである。

  • フェイクニュースの種類

物理戦と情報戦のハイブリッド戦となった「大坂夏の陣」

1615年には、大坂夏の陣が起きた。もはや大坂城には堀がないため野戦となった。家康はこの際にも、マルインフォメーションを戦術に利用している。まず、家康の軍を婚礼に見せかけて軍を移動させた。家康の九男である徳川義直が婚礼のために名古屋に移動することは事実であり、その情報を意図的にばらまいた。

家康はまた、偽の寝返り情報を夏の陣でも活用している。後藤又兵衛や真田幸村(信繁)に寝返りを打診して断られているのだが、打診したという事実を使って「寝返った」というフェイクニュースをばらまいていた。偽の情報であっても真田や後藤は結果として身内から疑われてしまうため、もし逃げたら「やはり裏切りだ」と味方に刺されてしまう。このため、前線にいる部隊は突っ込むしかなくなる。これが体勢を崩す暴走につながった可能性もある。

さらに、偽の和議交渉により、淀殿が秀頼の御馬出し(出陣)を止めた。秀頼が御馬出しをすれば身内の士気が一気に高まる効果があるが、止められたことで豊臣方の士気が高まることもなく、戦意の喪失につながってしまった。偽の和議交渉はもはや詐欺といえる。

このように、大坂夏の陣は戦略上の知能戦と物理的な戦闘も行われたハイブリッド戦だったといえる。ただし、豊臣側も情報戦を行わなかったわけではない。真田幸村の父、昌幸は武田信玄に仕えた諜報の名手で、敵の情報を吸い尽くした上で戦略を立てていた。幸村も多くの正確な情報を即時に集めることができたものの、大坂方の司令部に採用されることはほとんどなかった。

これはサイバーセキュリティの世界も同様で、優れた脅威インテリジェンスを持っていたとしても、それを生かさなければ意味がない。これも大坂の陣から学べることといえる。

豊臣側が勝つためにはどうすればよかったのか

大坂の陣から得られる教訓から、豊臣側が勝つためにはどうすればよかったのか。考えられるのは「戦略が不十分」「情報戦」「判断力」の3つである。大坂城は非常に堅牢だったが、城郭ネットワークが未構築であった。籠城するのであれば、周囲に援軍や支城がないと十分な効果が得られない。幸村などは京都へ攻め込むことを主張したが、採用されなかった。

また、秀頼の生存だけを考えるのであれば、秀吉の考えでもあった「公家になる」という選択肢もあった。しかし、秀頼は公家にはならず武士のままだったため、家康に攻められてしまった。やはり戦略が不十分であり、優先順位が明確でなかったことがポイントといえる。

「情報戦」は、方広寺鐘銘事件で片桐且元を冬の陣の前に追放してしまったことが、結果的に大坂の陣につながってしまった。また、家康による認知ドメインへの攻撃により、誰の情報を信じればいいのか分からなくなってしまった。真田をはじめとする得られた情報がありながらも情報戦、脅威インテリジェンスの活用能力がなかったこともポイントといえる。

そして「判断力」。豊臣側は客観的に物事を見る目が足りなかった。また、信じる相手を間違えて誤情報に踊らされてしまい、判断を誤ってしまった。最終的には「人」が重要なポイントとなる。

孫子による「爵禄百金を愛しみて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり」という格言がある。情報が正しくなければ、どんなに頭のいい人が戦略戦術を考えても間違ってしまう。戦争に勝つことはまず情報戦で勝つこと、そしてすべての情報は操作されると考えるべきである。そうしないと、大坂城のように防御力の高い城を構えていても丸裸にされて敗北してしまう。重要な教訓である。