日本郵船社長・曽我貴也「安全輸送の強みを生かし、脱炭素や洋上風力なども推進。グループの財産である『人』のモチベーションアップを」

「世界を舞台に働ける会社を選んだ」というのが入社の動機。それから約30年後のいま、コンテナ船の運賃高騰を体験し、現在は巡航速度になりつつある。その中で日本郵船の経営の舵取りを担うことになった新社長の曽我貴也氏は「既存事業を深めながら、脱炭素と循環経済を軸とした新規事業を進める」と語り、造船や運航の技術も進化させなければと指摘。グループの資産である「人」を基本軸にする成長戦略とは─。

【2024年をどう占うか?】答える人 日本郵船会長・長澤仁志

財産は「人」と「技術力」

 ─ コロナ禍に伴う物流網の混乱の中、前期まで2期連続で純利益が1兆円を超えました。今の海運業界をどう分析しますか。

 曽我 コロナ禍で最初に物流が大混乱に陥りました。これは船だけでなく、内陸の物流も含めてです。そんな中でも我々は「物流を止めない」を合い言葉にし、船内感染の防止も徹底してきました。しかし、その後に日用品を運ぶコンテナ船を中心に、貨物を港に揚げてもトラックや鉄道輸送で内陸に入っていけないという状況が起きました。

 すると、次の船が港に着けず、港付近に停泊するという悪循環が世界中の主要港で起きたのです。コンテナ船では長いときには20日間も待たなければならない状況になりました。これにより船の供給がずいぶんタイトになり、輸送力が相対的に減りました。

 荷主のお客様にとっては、何とか船に貨物を積んで運んで欲しいというのは当然なので、それに伴って運賃が上昇していきました。結果として、おっしゃったように2年間にわたって我々が想定もしていないような利益を上げることができました。ただ、お客様にはずいぶんご迷惑をおかけしたと思っています。

 ─ 足元の運賃市況は?

 曽我 平常時に戻りつつありますね。ただ、お客様の物流の捉え方は変わりましたね。今回のケースのように物流分断が起きると、実際にご商売をされている方々にとっても相当な問題が起こるということが判ったわけですから、これは大きいです。

 ─ 曽我さんは想定外の事態が突然起こり得るという環境の中、2023年4月に社長に就任しました。どんな言葉を社員に投げかけてきましたか。

 曽我 1つ目は日本郵船グループの財産が「人」であり、「技術力」であるということです。特に技術面では脱炭素があります。ここは本当に技術力の勝負です。我々がいま持ち得ている技術力や知見などをしっかり活用していかなければなりません。その下地はあると思っています。

 2つ目が人についてで、ワクワクして働けるような職場をつくっていきたいと。企業として価値を向上させる1つの源は生産性の向上になりますが、何よりも大切なのは仕事に傾ける情熱や理解力、モチベーションではないかと思っています。

 ─ 23―26年度の中期経営計画でも強調していますね。

 曽我 ええ。50年の我々の事業がどうありたいかという姿を想定した上でバックキャスティングし、23年から30年までの間に何をしておくべきかを考えました。その中で「AX」「BX」「CX」「DX」「EX」という5つのトランスフォーメーションズを打ち出しました。

 AXとBXが基軸戦略で、AXが「両利きの経営」、BXが「事業変革」です。ここで収益を出していこうと。コンテナ船や物流、エネルギー事業といった既存の事業を更に深化し、稼いだお金を成長事業や新規投資に振り向けます。そしてこの2つを支える「支えの戦略」がCX、DX、EXになります。

操船技術を生かした新事業

 ─ 具体的にどのような取り組みか聞かせてください。

 曽我 CXは人材・組織・グループ経営変革、DXはデジタルトランスフォーメーション、EXは脱炭素戦略の本格化です。先ほどの人に関わる領域はCXの一環であり、我々のグループ会社は相当数ありますので、これらのグループ会社の活性化をどう図るかがテーマです。

 ─ AX・BXにおける新規事業には何がありますか。

 曽我 例えば脱炭素です。脱炭素という材料を使って、我々としてできる新たな事業展開があります。再生可能エネルギーを軸にした事業展開や循環経済を軸にした事業展開です。

 再生可能エネルギーを軸にした事業展開で言えば、今まで運んでいた石炭は今後減っていきます。逆に液化二酸化炭素や水素、アンモニアといったものは増えていきます。輸送すべき素材が変わっていくわけです。

 そこで、これらを安全に輸送するには技術が必要です。運ぶための船舶もそうですし、貨物を揚げ積みする技術も今までとは違います。中にはルールがないような貨物もあります。そういったものをどうやって安全に運ぶかがポイントです。

 ─ ここに船会社としてのノウハウが生きるわけですね。

 曽我 そうです。もっと言えば、洋上風力でも我々が営むというよりも、洋上風力の設備は海の上で建設・運用しなければなりません。完成すれば定期的なメンテナンスも必要です。そういった建設要員やメンテナンス要員を陸から連れて行く仕組みも求められてきます。

 ─ 洋上風力を手掛ける企業と連携する力が求められるということになりますね。

 曽我 ええ。その意味では地域の活性化と県民サービス向上の推進などを図ることを目的とした包括連携協定を秋田県と締結しました。この中には洋上風力に関する内容も含まれているのです。

 洋上風力が普及すると、メンテナンス要員が必要になるのですが、実は洋上風力メンテナンス要員には船乗りに求められるような知識が必要になります。そこでそういった人材を教育する施設を作ろうということで、男鹿市にある海洋系の学科を持つ県立男鹿海洋高校と連携し、24年春のスタートに向けて準備中です。

 ─ そうすると、今後は新しい技術を持つ人材育成や採用が重要になってきますね。

 曽我 はい。新たな船を作るにしても造船所と細かい技術力の交渉があります。あるいは船に関わるエンジニアリングの知見も求められます。

 当社グループの郵船クルーズが25年に竣工を予定する大型客船「飛鳥Ⅲ」はドイツの造船所で建造中なのですが、この船の燃料はLNG(液化天然ガス)です。LNGでエンジンを回すのではなく、LNGで発電機を回し、その発電機で生まれた電力を使ってモーターを動かして船を推進させるという構造になります。

 こういう新たな船がどんどん増えてくれば、今までのような船のエンジンのメンテナンスとは異なり、電気系統に詳しい人材が求められてきます。我々の技術系の部隊も、だんだん分野が広がってきていますね。

 ─ 専門性が求められる。

 曽我 そうですね。船の燃料も当面はLNGが主流となりますが、その先の新燃料としてはアンモニアがあります。その際、アンモニア燃料を使った船の中の機関は、まさにプラントのような構造になるわけです。そういったものもしっかり理解できる技術者が必要になります。

日本の造船業復活に向けて

 ─ 飛鳥Ⅲはドイツの造船所で建造中ということですが、かつて日本の造船業は世界一でした。しかし、今は韓国や中国に後れを取っています。日本の造船業の復活にどう寄与していこうと考えていますか。

 曽我 当社は22年10月から東京大学と「海事デジタルエンジニアリング」に関する社会連携講座を開講しました。この講座では船を造る、船を運航することに対する新しいシミュレーション技術などの開発に向けて造船所や船舶用機器のメーカーなどと一緒になって取り組んでいます。これによって、日本が持っている潜在性のある技術力をしっかり作っていこうよと。

 この音頭を日本郵船や当社の技術開発研究を担うグループ会社のMTIでとっています。自動車産業で導入が進むモデルベース開発を活用して、複雑な船の設計でも迅速に最適化が図られるような研究も進めています。こういった取り組みを通じて日本の海事クラスターを、もっと目に見える形で盛り上げていきたいと思っています。

 ─ 24年は人手不足問題が全産業の課題になります。

 曽我 そうですね。海運業界で言えば、国内を運航する内航船で影響が出てきそうです。当社グループには内航に関わる事業をやっている会社がいくつかあります。そこでは本当になり手がいない大変な状況です。

「2024年問題」と言われてトラック運転手の不足がクローズアップされ、その代わりに内航を増やして対応しようという声もありますが、内航も実は人手不足の状況になっているのです。それはこの問題が叫ばれる前から起きています。ここをどう解決していくかは1企業では解決できません。政府を含めて産業界全体で考えていかなければならないと思います。

大学時代のゼミは「海上保険」

 ─ 社会全体での対応になりますね。さて、曽我さんは一橋大学の出身ですが、なぜ船会社を志望したのですか。

 曽我 私が所属していた商学部のゼミが海上保険のゼミでした。1980年代前半は海上保険のゼミはとても人気で、損害保険会社が常に就職希望ランキングで1位でした。ですから、このゼミも競争率が高くて入るのは大変でした。その中で海上保険を勉強すれば、当然、船会社の存在も知ることになりました。

 同じゼミでも優秀な人たちは損保に就職。私はあまり優秀ではなかったので(笑)。そもそも、損保を含めた金融業界はおそらく自分の肌に合わないなと思っていました。それで海運会社を調べたら、極めて扱う貨物も幅広い。何よりも目に見える実物を扱っています。

 目に見えないお金や保険ではなく、実物を扱い、それを世界中の人々に届けることによって、世界中の人々の暮らしを支えていると。そういった人々の生活を守るという部分に大きな意義を感じました。そして日本郵船への入社を希望しました。

 ─ そこに使命感を感じたのですね。

 曽我 ええ。それからもう1つは世界中で働きたいという思いもありました。ですから、商社も考えていました。当時の船会社は主要な港が駐在地でした。例えば、シンガポールやロンドン、サンフランシスコ、シアトルなどです。あまり僻地のような場所がなかったのです(笑)。

 お陰様で入社後はシンガポールやロンドン、バンコクと3カ所に駐在させていただきました。ロンドン駐在時は欧州大陸に何度も出張していました。ハンブルクやアントワープ、モスクワ、サンクトペテルブルグなどです。

 欧州のコンテナ船事業の元締めの業務を担当していたのですが、その際に、船の運営や航路の運営に加えて、その付加価値・サービスを、どうやって船のサービスに結びつけるかといった業務もありました。

 それこそアムステルダムからポーランド方面に鉄道を走らせたりもしました。船会社プラスアルファのような仕事がずいぶんありましたので、私の印象に強く残っていますね。海外での経験は私にとっては大きな糧になりましたね。