知り合いに「世界で初めてブラウン管テレビに映ったモノって知ってる?」と尋ねてみると、「知ってる知ってる、カタカナの“イ”でしょ!」と返ってくることは少なくない。わりとポピュラーな豆知識なのだ。その一方で「そのブラウン管テレビを発明した人って知ってる?」に対して正確な答えが返ってくることはほとんどない。今回はそんな、テレビの父・高柳健次郎氏(以下敬称略)をキーマンとして紹介しよう。
高柳健次郎は1899年、静岡県浜松市で誕生した。幼少の頃から電気回路をいじったり、模型作りに熱中したりするような少年だった。1912年、彼が13歳の時、タイタニック号沈没事件が起こった。その際、報道に無線が活躍したことを知り(2010/04/30号参照)、その魅力にとりつかれる。
高等小学校を卒業後は教員を目指し、静岡師範学校を経て1918年に東京高等工業学校の工業教員養成所に進む。そこで恩師である中村幸之助教授の「10年、20年先を目指してコツコツ勉強せよ」との訓話に激励され、教員を目指すとともに、かねてから興味のあった無線の研究も進めることを誓った。
東京高等工業学校卒業後は神奈川県立工業学校の教諭を経て故郷浜松に戻り、浜松高等工業学校の助教授に就任。1925年頃から本格的に「無線遠視法」、つまり「テレビジョン」の研究を開始した。ようやく日本でラジオ放送が開始した頃である。
高柳が研究していたテレビは、当時多くの技術者が研究を進めていた「機械式」ではなく、「電子式」を採用していた。さらにある時、測定器に使われているブラウン管を受像器に応用することをひらめき、研究を進めた。その結果、1926年12月25日、高柳は無線とブラウン管による画像の受像に世界で初めて成功した。冒頭に触れたとおり、初めてブラウン管に映ったモノは“イ”であった。走査線の数はわずか40本。そしてちょうどその日は大正天皇が崩御した日でもあった。大正から昭和へ移り変わる瞬間の偉業である。
1935年には「浜松高工式アイコノスコープ」と呼ばれる撮像装置を使って、走査線220本の電子式テレビジョンを完成させた。ちなみにこの「アイコノスコープ」の開発は、今でいう「プロジェクトチーム」を組織して進められたという。後日高柳は、これに関して「おそらく日本で最初の、短期間に成果を生んだプロジェクトチームだった」と評している。
その後、そのプロジェクトチームとともにNHK技術研究所のテレビジョン部長に就任。1940年に予定されていた東京オリンピックをテレビ中継するのが目的だった。しかしご存じのとおり、その東京オリンピックは戦争のため開催されなかった。それでも高柳は実験を進め、1939年には東京・砧に設置された高さ100mの鉄塔から東京一円に電波を発信するテレビジョン公開実験を成功させた。
戦争が激化する中、高柳も技師として軍に徴集され、テレビ研究は一時中断した。戦後はGHQによってNHKへの復帰を禁止されたため、民間企業である日本ビクターへ入社する。そして同社のテレビ研究者と合流し、ついに市販も可能なテレビジョン受像器を完成させた。1949年にはGHQと交渉を重ねて電波の使用許可を獲得し、放送試験研究も進めた。そして1950年11月、NHKテレビが定時実験放送を開始し、遂には1953年に本放送が開始するに至ったのである。そう、彼はテレビの発明だけではなく、テレビ放送までも含んで「テレビの父」なのである。
その後も高柳は、テレビ規格の標準化を進め、カラーテレビの開発にも尽力した。ちなみに、VTRの開発も高柳の手によるものである。1990年に亡くなるまで、とにかくテレビの研究や普及に尽力した人生だった。
彼がテレビの研究を始めて、実際の放送が開始するまでほぼ30年。彼の偉業は、恩師の「10年、20年先を目指せ」という言葉どおり、コツコツと積み重ねた成果なのであった。
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この記事はキーマンズネットで連載された過去記事を転載しています。