生理学研究所(生理研)、福島県立医大、京都大学の3者は6月18日、新しい2種類のウイルスベクターを用いることで、特定の神経回路選択的に遺伝子を導入する「二重遺伝子導入法」を新たに開発したと共同で発表した。

同時に、今回の手法により、進化の過程で霊長類において新しく脳からの電気信号を筋肉に伝える直接の経路ができてきた一方で、取り残されてしまったと考えられてきた「間接経路」が、実は私たち霊長類においても手指の巧みな動きを作り出すことに重要な役割を果たしていることが発見されたことも併せて発表している。

成果は、生理研の伊佐正教授、同木下正治特任助教、福島県立医大 医学部附属生体情報伝達研究所 生体機能研究部門の小林和人教授、同加藤成樹助教、京大 大学院生命科学研究科 認知情報学講座 大学院医学研究科 生体情報科学講座の渡邉大教授、同松井亮介助教らの共同研究グループによるもの。研究は、文部科学省・脳科学研究戦略推進プログラムの共同研究プロジェクトによるものだ。研究の詳細な内容は、6月17日付けで英科学誌「Nature」電子版に掲載された。

ヒトを含めた高等な霊長類は、手を巧みに動かす能力を身につけたことで、爆発的な進化を遂げたとされている。このように手指を1本ずつ器用に動かす能力は、大脳皮質の運動野が、筋肉を支配している脊髄の運動神経細胞に直接接続するようになったからと考えられてきた。

一方で、ネコやネズミといった、より下等で手先が不器用な動物では大脳皮質からの指令は脊髄の介在ニューロンを介して間接的にしか運動神経細胞につながっていない。

このような間接経路は霊長類にも残っているが、何をしているのかが、よくわかっていなかった。このように進化の過程で残された"古い回路"が高等動物の脳でも使われているのか、それとも邪魔だから抑制されているのかについては、多くの議論があり、決着がついていなかったのである。

研究グループは今回、二重遺伝子導入法(画像1)を新たに開発し、この間接経路を中継する脊髄介在ニューロン系(脊髄固有ニューロン)を選択的に抑制することに成功した(画像2・3)。

二重遺伝子導入法は、霊長類や高等哺乳類の特定の神経回路に遺伝子導入することができる技術だ。人間の脳神経系の疾患では、特定の神経回路の異常によって引き起こされる疾患も多く知られている。

今回の研究成果によって、脳の複雑な神経回路の中でも特定の神経回路に対して、行動に影響を与えることができるほどにまで高い効率で遺伝子導入できる技術の開発に成功した。それにより、今後、こうした脳神経疾患の患者へのより副作用が少なく、効果的な遺伝子治療法の開発につながる研究成果といえる。

画像1は、二重遺伝子導入法の開発に関しての概念図。まず、3つの神経(領域)(A、B、C)と、3つの神経(領域)(X、Y、Z)がつながり、複雑な神経回路を作っていると仮定する。

この内、BからYへのつながり(経路)を標的に遺伝子導入したいと想定。この際、神経Yの神経のつなぎ目(シナプス)部位に逆行性ウイルスベクターである「高頻度逆行性遺伝子導入(highly efficient retrograde gene transfer:HiRet)」ウイルスベクターを注入すると、神経Yに通じている神経に遺伝子(赤)が導入される。

その上で、神経Bに順行性ウイルスベクターを注入すると、神経Bの神経に別の遺伝子(青)が導入される。この2つの遺伝子(赤と青)が二重に導入された時のみに働くような仕組みを作っておけば(二重遺伝子導入法)、神経Bから神経Yへの経路だけに特異的に遺伝子発現による影響を与えることができるというものだ。

画像2は、脊髄の間接経路の神経伝達だけを自由に止めることに成功した様子を模式化したもの。脊髄の間接経路に二重遺伝子導入法を適用した。逆行性ウイルスベクターであるHiRetウイルスベクター(福島医大が開発)と順行性ウイルスベクターの両方に二重感染した脊髄固有ニューロンだけに特異的に遺伝子導入することに成功している。

これによって、薬物「DOX」をサルに飲ませることで、この間接経路の神経伝達(シナプス伝達)だけの効果を強めた破傷風毒素(京都大学が開発)を使って特異的に止めることに成功した。

画像1。二重遺伝子導入法の開発に関しての概念図

画像2。脊髄の間接経路の神経伝達だけを自由に止めることに成功

画像3。二重遺伝子導入法を適用した結果、緑色蛍光タンパク質「GFP」を発現している脊髄固有ニューロン(間接経路)

これにより、間接経路が実は手指の巧みな動きを作り出すことに重要な役割を果たしていることが明らかになり、長年の論争に決着がついたというわけだ(画像4)。

教科書の常識では、脊髄は、脳からの電気信号を伝える通り道であり、せいぜい反射の経路としか考えられていなかった。今回の研究成果により、脳から筋肉への信号の通り道の中でも、進化によって取り残された間接経路が、手指の巧みな動きを生み出しコントロールしていることが判明したことから、教科書を書き換える成果といえよう。

画像4は、間接経路の神経伝達を止めた時、サルの手指の巧みな動きが遅くなり、失敗が増えたのがわかる失敗率と運動時間、そしてDOX投与からの経過日数をまとめたグラフ。

DOXを投与して間接経路の神経伝達を止めると、サルが手指を使って筒の中のえさをつまむ運動ができなくなった。つまり、間接経路が阻害されたことによって、手指の巧みな動きができなくなったといえる。

画像4。間接経路の神経伝達を止めた時、サルの手指の巧みな動きが遅くなり、失敗が増えた

今回の研究でかぎとなったのは、2種類の新しいウイルスベクターを組み合わせて、特定の神経回路を選択的・可逆的に遮断する技術の開発に成功したことだ。これまで生殖細胞での遺伝子改変が可能だったマウスではこのような操作は可能だったが、霊長類では不可能だった。

ヒトを含む霊長類の脳は、1千億を超える神経細胞が複雑に絡み合う神経回路を作り、高次脳機能を生み出している。今回の手法を用いれば、こうした複雑な神経回路の中から特定の神経回路を選り分け、その機能を探ることができると期待できるという。

また、従来より、脊髄損傷が起きて、運動野から脊髄に至る直接経路が切れてしまうと運動能力の回復は困難とされていた。しかし、今回の結果から、進化の過程で退化してしまったのではないかと考えられてきた間接経路をうまく活用することで、脊髄損傷の患者でも手指の器用な運動の機能回復を促進できる可能性があることが判明したのである。このような新たなリハビリテーション法の開発や再生医療研究の発展が期待されると、研究グループはコメントした。