分子科学研究所(IMS)は、お椀の形をした炭化水素分子「バッキーボール(Buckybowl)」を形作る炭素原子の一部を窒素原子で置き換えた「アザバッキーボール」の合成に成功したと発表した。

アザバッキーボールは「不斉」(右手と左手のように、3次元の物体が、その鏡像と重ね合わすことのできない性質)を持っており、今回は併せて右手/左手型の作り分けにも成功したことが発表されている。

成果は、IMSの東林修平助教、櫻井英博准教授らの研究グループによるもの。研究の詳細な内容は、6月12日付けで英オンライン学術誌「Nature Communications」に掲載された。

バッキーボールは炭素原子でできたお椀の形の分子で、サッカーボール型の「フラーレン」の一部や、炭素原子がチューブ型に連なった「カーボンナノチューブ(CNT)」の先端部のキャップに相当する。1985年のフラーレンの発見以降、そのユニークな形と性質が注目を集めてきた(画像1)。

バッキーボールはフラーレンやCNTと同様の方法では作ることができず、お椀の形を化学反応で組み上げて作る必要がある。しかし、バッキーボールを構成する炭素原子は平らなシート状に結合する方が安定で、お椀のように曲がった形は不安定なため、お椀の形をどのように組み上げるかが難問だった。

その課題に対する回答として、研究グループは、「スマネン(C21H9)」という3回転対称のバッキーボールの作り方を2003年に報告している(画像1)。

画像1。フラーレンの一部に相当するお椀型の分子バッキーボール、アザバッキーボール

また、バッキーボールには不斉を持つものがあり、通常は右手型と左手型は同じ量が生成するが、研究グループは2008年に右手型もしくは左手型のみを作る方法も開発した。

一方、バッキーボールは元々炭素原子でのみで構成される分子だが、炭素原子をほかの原子で置き換えると、その性質を変化させることができる。そこでほかの原子を導入したバッキーボールの作り方が研究された結果、これまでに硫黄、ケイ素、スズなどの原子を入れたバッキーボールが報告された。

しかし、窒素原子を導入したものは作られていなかった。窒素原子を導入することによって、ほかの原子とは異なる性質を示すことが予想されることから、多くの研究者による努力が続けられてきたが、窒素原子を導入したバッキーボールは炭素原子のみのものより不安定でお椀の形を作りづらく、これまで誰も成功していなかったのである。

今回、研究グループはスマネンの炭素原子を窒素原子で置き換えた「トリアザスマネン」というアザバッキーボールを作ることに成功し、かつ右手/左手型を作り分けることにも成功したというわけだ(画像2)。

画像2。トリアザスマネンの右手型と左手型

今回開発された方法では、お椀の形を作りやすい種類の炭素原子で構成され、素原子を持つ化合物1が原料として用いられた(画像3)。3つの化合物1を繋げて化合物2へと化学変換した後、お椀の形を作って化合物3へと変換するという流れで、最後に水素原子などを除いて、バッキーボールを構成する種類の炭素原子へと変換することでトリアザスマネン4を作ることに成功した形だ。

また、原料の1は右手/左手型が存在し、右手型の1からは右手型の4が、左手型の1からは左手型の4が作られる。今回の成功の要因は、お椀の形を作りやすい種類の炭素を使ったこと、すべての化学変換が窒素原子や不斉が失われない穏やかな方法であったことが挙げられる。

画像3。トリアザスマネンの合成法

このように作った窒素原子を持つトリアザスマネンは、炭素原子のみから構成されるスマネンより深いお椀の形をしていることも明らかとなった。これは炭素原子と窒素原子の結合を作る手の長さの違いによるものである。

また、バッキーボールのお椀は平たい形に変化して、お椀がひっくり返ることが可能だ(画像4)。この変化のために不斉を持つ右手/左手型のバッキーボールは熱によって右手型が左手型に、またはその逆の変化が起きる。

当研究グループが以前に作った炭素原子のみから構成される右手/左手型のバッキーボールはこの変化が速く、室温では数時間でお互いに変化してしまう。しかし、今回作った窒素原子を含むトリアザスマネンはこの変化が極めて遅い点も明らかとなった。その変化は、室温では数億年オーダーの時間がかかるというものだ。このような大きな違いは窒素原子を導入した効果である。

画像4。お椀の反転による左手型と右手型の変化

今回開発された方法によって窒素原子を持つアザバッキーボールが作られるようになり、その性質を調べることができるようになった。今回明らかになったお椀の形や右手/左手型が変化する速さなどのほかにも、窒素原子と炭素原子の違いによるさまざまな性質の変化が期待される。

例えば、スマネンは固体ではお椀が積み重なった構造をしており(画像5)、非常に電気が流れやすい性質を持つ。トリアザスマネンも同じようにお椀が積み重なった構造をしているのか、電気の流れやすさはどうなるかといった点は今後の研究によるものとなる。

また、窒素原子は金属原子と結合を作りやすい性質を持つ。お椀の窒素原子と金属原子が結合すると、どんな幾何学的な形を作るのかといった点など、興味は尽きないと、研究グループはコメントしている。

画像5。積み重なったお椀型のスマネン

一方、このようなお椀分子の合成、性質は基礎科学のみならず、電子材料などの応用分野でも重要な意味を持つ。これまでに存在しなかった分子を生み出し、新たな材料へと繋がる性質を明らかにすることが可能になるからだ。

今回成功した窒素原子を導入したお椀分子の右手/左手型を作り分けるような技術は、お椀分子の材料分野への応用のみならず、フラーレンやCNTにおける窒素原子の導入、右手/左手型の作り分けとその材料への展開などにもつながる可能性を秘めているとしている。