インフラツーリズムとは、公共施設や巨大構造物のダイナミックな姿や精緻な構造を間近に観察したり、通常はなかなか立ち入ることのできない施設や現場を見学したりして、日常生活では得られない視覚的・感覚的な体験を味わう小さな旅のスタイルである。
遠出をしなくても、都市のすぐそばにある“日常の外側”へアクセスできるのも魅力だ。本コラムでは、筆者が実際に現地へ赴き、歩き、見て、感じたインフラツーリズムの現場を紹介していく。今回は“旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設”だ。
東京の東側、現在の23区部にはかつて路面電車網が広がっていた。最盛期には40路線・総延長213kmに達したが、自動車交通の増加などにより1960年代から順次廃止され、現在残っているのは唯一「都電荒川線」だけ。
荒川線は、東京都荒川区の三ノ輪橋停留場から新宿区の早稲田停留場までを結ぶ全長約12.2kmの路線で、今も生活路線であると同時に、昭和の情緒を残すチンチン電車として親しまれている。
その荒川線に乗り、三ノ輪橋から3つ目の荒川二丁目停留場で下車。すぐ近くにある赤レンガ造りの壮麗な建物を目指す。
「旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設」だ。
日本初の近代的下水処理場「三河島汚水処分場」の一部として、今(2025年)から100年以上前に建設されたこのポンプ場。すでに役割を終えているが、都市インフラの近代化を象徴する遺構として保存され、現在は国の重要文化財にも指定されている。
現役で稼働する三河島水再生センターの敷地内にあり、一般向けに予約制の見学ツアーがある。
東京市技師・米元晋一が設計した近代的な汚水処分場
ガイドさんの説明は、江戸期の下水事情から始まった。
三河島汚水処分場(現・三河島水再生センター)は1922年(大正11年)に運転を開始したが、それよりずっと前の江戸の町には、すでに下水道の仕組みが存在していた。下水路や掘割を通じ、生活排水は川や堀へと導かれていたのである。
とりわけ重要だったのは、下肥(しもごえ)の流通である。江戸期、都市で発生したし尿は農家が買い取り、肥料として農村に運ばれるシステムが確立されていた(いわゆる「金肥」)。そのため、江戸の町の下水にはし尿が混じりにくく、相対的に清潔な環境が維持されていたのだ。
しかし、近代に入ると状況は一変する。
都市の拡大と人口の増大により、し尿や汚水の処理は追いつかなくなり、飲料水の汚染や悪臭などの衛生問題が表面化。コレラをはじめとする感染症が繰り返し流行し、これが東京における上水・下水の近代化を急がせる大きな要因となった。
三河島が汚水処分場の候補地として最初に挙げられたのは、1889年(明治22年)に提出された「東京市下水設計第一報告書」であった。1903年(明治37年)には、東京帝国大学教授・中島鋭治のもとで大規模な調査が行われ、その結果は1907年(明治40年)に「東京市下水設計調査報告書」としてまとめられた。この報告書をもとに作成された「東京市下水設計」は翌年の閣議決定を経て、事業の認可を受けることとなった。
同計画に含まれていた本邦初の近代下水処理場である三河島汚水処分場は、1914年(大正3年)に着工。設計は、1911年(明治44年)から欧米48都市の施設を視察した東京市技師・米元晋一がまとめた「下水道調査報告書」をもとに行われていた。そして1922年(大正11年)3月26日、喞筒(ポンプ)場、沈殿池、散水ろ床、最終沈殿池などによって構成される三河島汚水処分場は稼働を開始した。
米元が設計したこの施設は、欧米の単純な模倣ではなく、日本の都市に適した方式を採用。汚水を集め、喞筒(ポンプ)でくみ上げ、沈殿・ろ過を経て処理したうえで放流する。この仕組みは「三河島方式」と呼ばれ、その後、全国に普及していった。
そんな三河島汚水処分場の中枢として建てられたのが、今回見学した喞筒(ポンプ)場施設なのである。
三河島汚水処分場の下水処理方式は、稼働開始当時に「散水ろ床方式」を採用。その後、1936年(昭和11年)に「パドル式活性汚泥法」、1961年(昭和36年)には「散気式標準活性汚泥法」が加わるなど、時代とともに進化した。しかし1999年(平成11年)には老朽化により運転を停止し、新しいポンプ場にその役目を引き継いでいる。
見学ツアーで見られる施設
そもそも“喞筒(ポンプ)場施設”とは何かというと、処理場に流入してきた下水から土砂類を取り除き、ポンプで吸い揚げて下水処理工程へ送るための施設である。
見学ツアーは、正門の脇に建つ「門衛所」から始まった。1925(大正14)年に建設された施設の表玄関で、派手さはないが、端正な佇まいを見せる小建築だ。
次に案内されたのは、東西に一棟ずつ建つ「入口阻水扉(そすいひ)室上屋」である。この手前で二系統に分かれる地下の下水は、阻水扉を通過してその先の「沈砂池(ちんさち)」へ進むが、阻水扉を閉じれば一時的に下水の流れを遮断できる。
二系統に分けられるのは、メンテナンスの際に片方を止めても、もう一方で処理を続けられるようにするためだ。なるほど、家庭でいえばトイレが2つある家みたいなものか。
1つしかないトイレが夜中に詰まったりすると、絶望的な気分になるもんな……、などと思う。そんな小さな話ではないのだが。
続いての「沈砂池」は、下水をゆっくり流しながら土砂や砂利を沈殿させて取り除く施設だ。
「沈砂池」への流入渠(りゅうにゅうきょ)の縁石は、花崗岩を用いた美しい馬蹄形のアーチを描き、見学ルートの見どころのひとつとなっていた。
それでもなお残る紙屑や木片などのゴミは、「濾格室(ろかくしつ)」に設置された濾格機で取り除かれる。「濾格室上屋」では、濾格機に集まったゴミをかき上げる作業が行われていたという。
水中から分離された土砂やゴミは、土運車(トロッコ)に積み込まれ、インクライン(傾斜鉄道)によって坂上へと引き上げられる。
そのための動力装置が据え付けられていたのが「土運車引揚装置用電動機室」である。
さらに「濾格室上屋」の後方に広がる芝生の下には「量水器室」があり、ベンチュリーメーターを用いて流入する下水の量を計測していた。
二系統に分かれて「沈砂室」を通過した下水は「導水渠(どうすいきょ)」で再び合流し、「ポンプ井(せい)阻水扉室」を抜けて「喞筒井(ポンプせい)」へと導かれる。
「喞筒井(ポンプせい)」とは、下水をポンプで吸い揚げるためのピット(ます)である。
そしてツアーのクライマックス、「喞筒室(ポンプしつ)」へ。
ここでは口径ごとに設置された10台のポンプが稼働し、「喞筒井」から吸い揚げた水を地上の下水処理場へと送っていた。
大型4台、中型3台、小型3台のポンプが、水量に応じて使い分けられていたという。
「喞筒室」の外観は、オーストリア・ウィーンで始まり大正時代に流行したセセッション様式。鮮やかな赤レンガ風タイル張りで仕上げられたシンメトリーな建物はとても美しかった。
内部に足を踏み入れると、吹き抜けの巨大な空間が広がっていた。
【動画】広々とした「喞筒室」の内部
そのスケールは圧倒的で、実用的な工場であることはわかっていても、まるで大聖堂を思わせる荘厳さを感じた。誰もが思わず「おおっ」と声を漏らすような、圧巻の空間だった。
【動画】「喞筒室」の中には、珍しいものもある新旧の下水道マンホールが展示されていた
美しい景観と帝都参観
旧三河島汚水処分場の屋外には、桜やツツジをはじめとする植栽が配置され、季節ごとに見事な花が咲き誇る。
「喞筒室」の建物も然り、汚水処理場という負のイメージを払拭するため、あえて美しい景観が整えられていたのである。
完成当初からここは“帝都参観”のコースに含まれ、東京の近代化を象徴する施設として多くの人々が訪れていたという記録も残っている。いわば、昔の“インフラツーリズム”の現場だったのだ。
こうした歴史を背景に、旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設は2007年(平成19年)、下水道分野の遺構としては初めて国の重要文化財に指定された。一連の構造物が旧態を保持したまま、まとめて残されており、近代下水処理場の構成を知るうえで極めて重要な文化財と評価されたのである。
一方で、隣接地には現役の下水処理場があり、今も24時間体制で稼働を続けている。最新鋭設備と百年前のレンガ建築が同居する光景は、この場所ならではのものだ。
旧三河島汚水処分場喞筒場施設――圧倒的な規模と静かな美しさをたたえるこの赤レンガ建築は、東京の都市文明の歴史を静かに物語り続けているようだった。























