フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース開始の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


すべては灰に

1945年 (昭和20) 4月13日の大空襲で、写真植字機研究所のあった東京・大塚一帯は焼け野原と化した。茂吉の家も工場も、一夜にして灰になってしまった。

住む家を失った石井一家は、防空壕で暮らし始めた。しかし地中に掘られたその穴は、せまくるしく、しめっぽい。1カ月ほどすると、茂吉たちは焼けたトタンを拾い集め、トタン葺きのバラック小屋を建てて、仮住まいとした。風が吹くと夜中であろうが屋根を手で押さえていなくては飛ばされてしまいそうな小屋だったが、壕舎のせまくるしさをおもえば、じゅうぶんだった。[注1]

すべてを失ったとはいえ、いくのはからいで地中に埋めていた写真植字機2台と若干の資料などが残っていた。茂吉は、なんとか事業の再開をはかろうとしたのだろう。工場が焼失したわずか3週間後の4月30日に、陸軍軍需品本廠あてに「効果証明書」の証明願を出した。陸軍軍需品本廠は、写真植字機の納入先でもある。写真植字機の効用を述べてその普及活用を証明してもらい、事業を再開させようとかんがえたのだ。5月1日には陸軍軍需品本廠市ヶ谷出張所から「右。証明する」の証明書を受領した。

しかし同1945年 (昭和20) 8月15日正午、ラジオから玉音放送――昭和天皇が国民に終戦を告げる声――が流れた。日本は敗戦した。茂吉の事業再開のこころみは中止せざるをえなくなり、研究所の再建は白紙となった。[注2]

種をまく

大塚の土地はマーケット跡だけあって、幸い広かった。しばらく食糧難が緩和しようもないのは明らかだ。茂吉は、とりあえず野菜をつくることにした。土地を耕し、サツマイモやカボチャ、ナス、里芋、青菜などの種をまき、乳をとるためにヤギも飼うことにした。毎日の畑の手入れや、ヤギの餌のための草刈りが一家の仕事になった。[注3]

  • 焼け跡での写真。左から、石井茂吉、いく、裕子、圭吉、写真植字機研究所員の浅野長雅。1945年 (昭和20) ごろとおもわれる。(『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.165より)

    焼け跡での写真。左から、石井茂吉、いく、裕子、圭吉、写真植字機研究所員の浅野長雅。1945年 (昭和20) ごろとおもわれる。(『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.165より)

三女の裕子は、この1945年 (昭和20) 3月に共立女子専門学校を卒業したばかりだった。手芸や裁縫が好きで、家政科を専攻していた彼女は、学校の先生になりたかった。しかしそれも、戦災にあったために不可能になり、焼け跡での自給自足に取り組むしかなかった。どこか現実離れして、非常時もマイペースを崩さなかった父・茂吉とちがい、裕子は一夜にして家が灰になったことに空しさをおぼえていた。けれど、そんなことをかんがえている暇はなかった。

〈ともかく空しいなんて考えているよりも焼け跡の復興をしなければと家族全員で跡片づけをしたり畠をつくったり、よく頑張りました。生きることに精一杯だったのです〉 のちにそんなふうに語っている。

戦災にあっていなければ、裕子は夢をかなえて学校の先生になっていたかもしれない。大空襲が、彼女をおおきな運命の転換期に連れていった。[注4]

何事も研究熱心

もはや、畑仕事以外にすることもない。しかしそこまで追い詰められると、むしろ茂吉生来の鷹揚さが表出した。

ときに茂吉は、娘たちの着物をいくが防空壕から取り出し、綱を張って干している様子に、その赤や緑の美しい色彩を花にたとえて「醍醐の花見だ」とにこにこしてながめた。[注5]

あるときは、柿の落ち葉をていねいにまとめ、器用な手つきで刻んだあと、小型の紙巻き器を操作して代用たばこをつくった。それを見かけた武藤巳之助が、茂吉の背越しに「一本のたばこさえ手に入らないほどに追い詰められては、まったく処置なしですナー」と声をかけたところ、「いや、不自由を常と思えばいいんだ。戦地の兵隊さんのことを考えると、ぜいたくは言えんよ、どうだ一本やってみんか」と声高らかに笑った。

どんなにたいへんなことが起きても、茂吉は顔色ひとつ変えず、落ち着きはらっていた。[注6]

凝り性の茂吉は、いざ野菜づくりに取り組みはじめると、夢中になった。神田の古本屋で『野菜のつくり方』といった書物を買いこんでは研究した。茂吉一家の畑は、まるで本職の農家のようにみごとな収穫をあげた。のちに森澤信夫も「なかなか芋づくりが上手で、私も芋づくりを教えてもらったものだ」と語っている。[注7]

終戦後に和田栄吉 (本連載第74回参照) が茂吉を訪ねたときは、すっかり日に焼けて農夫のようなかっこうをした茂吉が、サツマイモのつるを返す作業をしていた。和田の顔を見ると「いま、食糧自給をやっているのです」と元気に話し、自分がいま取り組んでいる「サツマイモのつる返し」の作業が、収穫を増やすためにどれほど大切な仕事であるかを説明しはじめた。和田は「何事にも研究熱心なひとだ……」と印象深く聞いたという。[注8]

かつての関係者たちが訪ねてくると、茂吉夫妻は誰彼を問わず、自慢のカボチャやイモをみやげに持たせた。茂吉みずから搾ったヤギ乳をふるまうこともあった。敗戦による極度の窮乏で、ひとびとが食糧の入手に奔走していた時期だ。貴重な野菜類をにこにこしながら惜しみなく分けた茂吉の姿が印象的だったのだろう、のちにそのエピソードは何人ものひとに語られることとなった。[注9]

写真植字機をつくりたい

しかしこうしたなかでも、写真植字機のことは忘れてはいなかった。茂吉は、戦前に出荷した80台近くの写真植字機のゆくえを、いつも気にかけていた。大半は、企業整備や徴用によって鉄くずにされ、兵器の部品にでもされてしまっただろう。軍関係に納入した機械は、軍の解体によって廃棄処分になったかもしれない。けれどそんななかで、戦災をまぬがれた機械があると知ると、わがことのように喜んだ。

1945年 (昭和20) 10月の終戦まもない時期に、日出島製版所の社長が写真植字機の修理を依頼してきたときも、茂吉の喜びはたいへんなものだった。日出島の機械は、もともと神田の加藤製版印刷にあった古い写植機を譲り受けたもので、たまたま軍にあずけてあったために空襲をまぬがれたのだった。戦後、日出島はその1台の写植機で生活を建てようと決意し、疎開先の千葉県市川市で営業を始めたのである。写真植字機研究所は焼失し、従業員もほとんどいない状態で、茂吉はこの機械のシャッターの故障などを、何時間もかけてみずから修理した。写植に対する茂吉の情熱と研究に、日出島は頭が下がるばかりだった。その後も日出島が大塚を訪ねるたびに、茂吉は写植の将来を語ったという。[注10]

終戦と同時に陸軍燃料廠にあった写真植字機をゆずりうけた共同印刷が、わずか2台の写植機で十数台のオフセット印刷機を動かしていると聞いたときにも、茂吉は身を乗り出して、顔を輝かせた。

写真植字機をつくりたい。その気持ちは変わらず茂吉のなかにあった。しかし資材もない、設備もない、生産しようがない。結局は、食糧不足をおぎなうために野菜づくりに精を出し、丹精こめてつくったカボチャやサツマイモを、訪れてくるひとびとに持たせるぐらいしかできなかった。

東京帝国大学時代の恩師・加茂正雄教授が茂吉のバラック小屋を訪ねてきたのは、そんなある日のことだった。[注11]

(つづく)

※本連載は隔週更新となります。
 次は2月17日更新予定です。

[注1] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.167、「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.48

[注2] 布施茂 編『技術者たちの挑戦 写真植字機技術史』三省堂、2016 p.14

[注3] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.168

[注4] 『梅のかをり : 回想の忍岡』忍岡高女三十一期生回想録編集委員会、1979.6 p.168 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12110454 (参照 2025-10-04)

[注5] 石神与八「質素で至誠通天の人」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.219

[注6] 武藤巳之作「英才石井茂吉のりっぱな最後」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.222-223

[注7] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.169、森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.27

[注8] 和田栄吉「焦げた活字見本帳に寄せる執念」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 p.182

[注9] 『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965のなかに何度もカボチャなどをもらったエピソードが登場している。

[注10] 日出島武男「故石井先生をしのぶ」『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965 pp.142-143

[注11] 「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.48、石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.170

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
「文字に生きる」編集委員会 編『文字に生きる〈写研五〇念の歩み〉』写研、1975
布施茂 編『技術者たちの挑戦 写真植字機技術史』三省堂、2016
『梅のかをり : 回想の忍岡』忍岡高女三十一期生回想録編集委員会、1979.6 p.168 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12110454 (参照 2025-10-04)

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ