「音を出す」って難しい
私たちは「音」に囲まれて生きている。家ではオーディオで音楽を聴き、目覚まし時計で飛び起きる。外では駅やデパートの放送に耳を傾け、非常時には避難の誘導をしてもらうこともあるだろう。
いま「家では」「外では」と書いたが、この2つには大きな違いがあるということを知っていただろうか。結論からいうと、「外で音を鳴らす」というのは、「家で音を鳴らす」のに比べてはるかに難しいことなのである。
たとえば音量。場内放送やBGMは、いったいどんな音量で鳴らせばいいのか。小さな音量では混雑時には騒音にかき消されてしまうが、かといって常に大音量では、閑散としているときにうるさくなりすぎる。つまり、適当な音量で放送するには、常に現場の状況に応じて音量を調整しなければならないのだ。
または、スタジアムのような非常に広い場所で、全体に向けた場内放送をすることを考えてみよう。放送が全員に聞こえるようにするには、どうすればいいのか?
まっさきに思いつくのは、場内のどこかに巨大なスピーカーをドンと置いて、そこから大音量で放送することだろう。しかしこれをやると、スピーカー付近にいる人は、おそらく鼓膜が破れるほどの大音量を聞かされることになる。だからといって音量を下げると、遠くにいる人には届かない。
それではと、小さなスピーカーを一定間隔で配置したとしよう。すると、確かに近くのスピーカーからは正しく音を聞くことができるが、遠くのスピーカーからやってくるズレた(遅れた)音も聞こえてしまう。一定間隔で配置されているから、あちこちのスピーカーから少しずつズレた音が聞こえてエコーのようになり、とてつもなく聞きづらい音になるはずだ(これは体験した人もいることだろう)。
いったいどうすれば、全員が「適正音量で」「ズレた音を聞くこともなく」正しい音を聞くことができるのだろうか。
難しいのは放送だけではない。駅構内などで、「ピンポーン」「ピコーン」「ピピピッ」のような電子音が増えていることに気付いていたろうか。あれは「音サイン」といい、目の不自由な人を音で誘導するシステムだ。
その音サインも、ただ鳴らせばいいというものではない。「改札口で音を出しておけば、その音を頼りに改札口まで来られるだろう」と思いがちだが、ただ音を出しただけではそれがどこで鳴っている音なのかがわからない。「音の発信源」が明確にわかるように出さなければならない。それも、ただ大きな音を出すだけではダメだ。あちこちで大きな「音サイン」が鳴っていたら、複数の音サインがごちゃごちゃになって混乱してしまうからである。
音響設計のプロ集団、TOAとはどんな会社?
このように、実は「公共の場で音を出す」というのは、非常に難しいことなのだ。
そこで、公共の場で音を効果的に出すためには、音の「設計」が必要になる。単なる音質や音量といったものではなく、その場の環境とか、利用する人間とか、そういった総合的な観点からの設計、つまり音のソーシャルデザインが求められるのである。
この「音のソーシャルデザイン」は、場内放送なら建物全体の設計を考慮する必要があるし、音を入出力するための機器(マイクやアンプ・スピーカーなど)についても知り尽くしている必要があるため、大規模な事業になってしまう。それでも、いくつかの企業がこの事業に取り組んでいる。「音のソーシャルデザイン」について知るため、その中でも最大手のひとつであるTOAに協力をお願いした。
TOAの第一印象は、一言でいえば「一言でいえない会社」だった。やっていることが多すぎて「○○の会社」と一言で紹介できないのだ。
手持ちの電気メガホン(体育の先生が持ってるアレだ)を作っている。かと思うと、ウィーン国立歌劇場の音響システムを作っていたりもする。「メガホンからウィーン国立歌劇場まで」だ。では音響メーカーなのかというと、街中に設置されている防犯カメラとか、災害時の非常警報システム(関連記事)なんていうものも作っている。
正直言って一般の人にはあまり名前が知られていないかもしれないが、実は空港施設の放送設備に関しては90%以上のシェアを持ち(※)、そのほかの公共施設でも大きなシェアを占めているという、まさに「振り返ればそこにTOA製品が」といっても過言ではない(かもしれない)ほどの「隠れた有名企業」なのである。
※日本国内で、国際線の発着が可能な第一種空港については100%、それ以外の空港では90%近くのシェア。
鉄道駅やデパート、コンサートホール、スタジアムと数多くの公共施設で音響の設計を行なっているTOAに取材することで、「音のソーシャルデザイン」に関して多くを得ることができた(ついでに、音に関する奇妙な話もいっぱい聞けた。それもおいおい紹介したい)。
街にあふれる「すごい!」を知りたい
冒頭で述べたように、公共の場には音があふれている。そのため、私たちは音をまるで空気のように当たり前に聞いてしまっている。しかしその音は、実は大変な努力と緻密な計算によって設計されたものかもしれないのだ。音というものは、聞こえにくい場合にはおかしいと気付くが、皮肉にも「普通」に聞こえれば聞こえるほど、その裏にあるすごさには気付かないわけである。
このコラムでは、普段見過ごされがちな「音のソーシャルデザイン」について語っていきたい。ただその目的は、「陰の苦労を知って感謝しましょう」というつもりはあまりなくて、街角で何か音を聞いたときに「この音、普通に聞けてるけど、それって実はすごいことなんだよ」ということを知っていたら楽しいだろうなあというだけのものだ。
たとえば先に書いた「スタジアムの放送」や「音サイン」の問題、どれも「なるほど!」という解法がある。それらも、この連載で紹介しよう。
TOAの取材が終わり、帰り支度をしていたときだった。それまで筆者を案内してくれた担当氏が、窓の外を見つめながら言った。
「私どもの仕事は、うまくいっていないときはお叱りを受けますが、うまくいっているときは誰にも気づかれないんです。誰にも褒めてもらえない状態が、一番うまくいっているときなんですよ」。
……そんな、ちょっとカッコよすぎるTOAの挑戦は、次回以降で紹介していこう。
取材協力:TOA株式会社
1934年創業、業務用音響機器と映像機器の専門メーカー。業務用音響機器とは、駅の案内放送、校内放送やホール音響など、公共空間で使用される拡声放送機器、業務用映像機器とは、防犯カメラやデジタル録画装置などのセキュリティ用途の商品を指す。1954年、「電気メガホン」を世界初開発、選挙用のマイク装置で事業の基礎を築く。現在では、音の入り口のマイクロホンから、音の出口のスピーカーまでのシステムを取りそろえ、あらゆる公共空間で事業活動を行なう。企業哲学は「機器ではなく音を買っていただく」。企業サイトはこちら。