FreeBSDのコアはぼくらが手がけた
1986年にマイクロソフトの日本法人が設立され初代代表取締役社長に就任、1991年に代表取締役会長、2000年には米マイクロソフト社の副社長となった同氏。2005年6月に退社した後は慶應義塾大学院教授のほか、IPA未踏ソフトウェア創造事業のPMなどもこなしている。
「申し上げたいのは、自分自身もプログラムを書いて世界に認められたいと思ってきたひとりなんです」と古川氏は語る。そのときの経験や海外から良いものを日本語にして日本で紹介する、そしてまた海外へ活動を広げてゆくことが大切だと若いエンジニアへ向けて話しを続けた。
「Leopard(Mac OS Xの新OS)っていうのはBSDのUNIXがコアになっています。Leopardの日本語版っていうのは20年以上前にぼくらが手がけたものが核になっていて、脈々と受け継がれてきているんですよ。そういう意味では現在のFreeBSDでも使われているんですね」と同氏は語る。彼が手がけたものがさまざまなプラットフォームにおいて、現在でも活かされているという事実には説得力がある。
「将来ご一緒できたらよいですね」と言ってしまったんです
続いて古川氏は、マイクロソフトの社長という立場の時代に、さまざまな人を世界に送り出してきたという経歴について話出した。
「みなさん、ジャストシステムさんはご存知だと思います。会社が成長する前、彼らにはMS-DOSのワープロを何とか作りたいという思いがあったようです。当時の日本語ワープロといえば"PC-WORDひかり"、"松"といったものしかありませんでした。それらはディスクベーシックをファイルシステムとして、専用ワープロが動いていてOSは入っていません。それを何とかWindowsの上でワープロを動かしたいということだったのです」と同氏は語る。
そもそもジャストシステムとの付き合いがはじまったのは、現在のジャストシステム社長である浮川和宣氏らが、牛の乳搾りのソフトウェアを作っていた頃だったという。浮川氏から古川氏へ、ベーシックコンパイラを使ったランタイムモジュールを酪農家に渡してもよいのか? という質問が届いたのだという。「当時からツールの不法コピーは多かったのです。実際にはベーシックコンパイラというのはランタイムを別途買わなくとも申請書だけでコピーしても構わない仕様でしたが、同じソフトウェアを書くもの同士で尊重しあうという姿勢に共感しました」と語る。「でも、そのまま電話を切らずに"将来ご一緒できたらよいですね"と言ってしまったんです。すると翌週に浮川さんが来てしまったんです(笑)」と話を続け会場を沸かせる。そこで作られたのが「一太郎」だったのだ。
UNIXは失敗
その当時はマイクロソフトのWordがすでにあったが、古川氏は日本でゼロから生まれたソフトウェアメーカーをバックアップするために、Windowsというプラットフォームを提供しなければお互いの活躍の場が広がらないと考えたのだという。同様にExcelがありつつも、ロータス123の登場も喜んでいたのだという。
「そういう意味ではUNIXはある意味で大失敗しました。UNIXの漢字をどうやって標準化するのか、あるいは自由なかな変換を組み込むようにするとか、どのアプリケーションでもUNIXで動くように何とかがんばったのですが、いくつかは共通のプラットフォームでは動いたが、一部では不可能だった」と当時を振り返る。
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若いエンジニアへ向け言葉を投げかける古川氏 |
さらに「海外へ行こうという若いエンジニアはプラットフォームの選択を間違えないようにしてほしい。元マイクロソフトにいた人間がいうと不思議に思えるかも知れないけれど、ひとつのプラットフォームだけを相手にしていたのではダメなんです」と語る。Windowsといえど将来は市場を狭める可能性もあるし、マイクロソフトの企業価値が変化することだってありえる話だ。そんなときにひとつのプラットフォームだけを選択していたのでは、一緒に沈没してしまうだろうと同氏はいう。「共通のコアとなる部分はOSに依存しない形で作るべき。それがITの歴史の中に残るという強い姿勢だと思います」と同氏は語る。
古川享氏の講演は海外で活躍しようというエンジニアへ向け、いよいよ言葉が熱を帯びてきた。その模様は後編でお伝えしよう。