堀高明代表取締役社長とともにスターフライヤーを立ち上げたひとりとして、スターフライヤー創業の歴史をここに記していこうと思う。前回、エアラインとしての基本的な資格である航空運送事業許可を取得するまでの話に触れた。その交渉とともに進んでいたのが、「他にない」制服や機内サービスなどの選定だった。

現在使用されている機長の制服に到るまでには、いろいろと解決しなければいけない問題があった

制服案に機長たちからのストップ

まずは制服。これは機体デザインなどを担当してくださったフラワーロボティクス代表の松井龍哉氏から、屈指のスタイリストとしてご紹介いただいた森岡弘氏にお任せした。CAの制服は日本の航空業界初の黒のパンツルックでいかにもスタイリッシュなデザイン。また、パイロットにも黒地に白ボタンのディナーショーに似合いそうなおしゃれな制服ができ上がった。

ところがパイロットから大きな不満が出る。初期案には帽子、肩章、袖口の金のラインがなかったのだ。これは事務局からきちんと用件を伝え切れていなかったことが原因だが、機長の4本線、副操縦士の3本線は職位を表す最大のステータスであり、機長たちにはこれがないものは制服じゃない、と映ったのだった。

そこで東京で訓練中の外国人機長に集合してもらい、深夜に宿泊先のホテルで団体交渉と相成った。ラインと肩章を入れ、帽子を追加することは当然の変更となったが、機長からは「白ボタンではパイロットとしての格式が足りない」「コックピット内の制服にデザイン性がいるのか」などの意見が出された。これに対し、「パイロットが空港内を歩く姿は会社イメージの最も象徴的な瞬間」などデザインの意味を何度も説明して理解を求め、ボタンや肩章・袖口のラインをシルバーにすることで理解を得た。

CAとグランドスタッフにもこだわりのデザインを

グランドスタッフの制服はグレーとグリーンの落ち着いた混合色だったが、「パンツがほしい」「私たちも黒を着たい」などの声も上がった。森岡氏にあれこれ無理をお願いし、色調や作業性に配慮したチューンアップをしていただき、ようやくスターフライヤーらしい制服がまとまったのだった。

CAの制服につきものなのがバッグ。これは、ブランドコンセプトに共感を持っていただいたプーマジャパンからセンスの合致する黒のショルダーバッグとキャリーをCA全員分、無償で提供していただいた。

ところで、スターフライヤーの社章はバカラと関連している。就航記念品はロゴを刻んだバカラのタンブラーに決めた。また、打ち合わせをしている時に発見したバカラジャパン社の方が襟に付けていたブラックワイングラスのピンバッジがあまりにステキだったので、製作会社を紹介していただき、スターフライヤーの社章を作ってもらったのだ。女性用の社章はペンダントにするという、「他にない」ひとひねりも入れてみた。なお、社章はコスト削減の観点から2010年5月より廃止となっている。

社章のデザインの誕生には、バカラとの浅からぬ関係も

眠らぬ空港

次々湧き出る困難だが、関係者の努力で解決したこともあった。それは北九州空港の「24時間運用」だ。これには管制官の体制を確保する必要があり、国の予算の裏付けがいる。

通常、地方空港の運用は良くても15時間(7時~22時)だ。これが運航時間=航空機の稼働=航空会社のユニットコストを縛り、コスト構造を悪化させることになる。そのため、座席数が少なく単位コストが高いスターフライヤーにとっては、北九州空港が「眠らぬ空港」になり他社より座席数の少なさをカバーするに足る、多くの機材稼働を確保する必要があった。

予算という国交省・財務省への大きな壁があったのだが、堀社長の懸命の永田町通いと北九州市空港対策室の関係先への粘り強い働きかけが功を奏し、就航後間もなく24時間運用へと持ち込むことができた。国交省内でも、「なぜ(内外で応援してくれた方々を指し)この人たちが北九州=スターフライヤーをこんなに応援するのか不思議だ」という声が流れたと聞く。

黒の革張りに機内テレビの設置

飛行機のスペック(仕様)選定も進んだ。座席は黒の革張りを採用。価格は布地の倍だったが耐用期間も倍なので、コスパは同等というふれこみに納得して購入したが、8年リースで返却するのだとやはり高くついたかと後になって思う。しかし、機内清掃もしやすく、何より我々が目指した「感動のある航空会社」のベースとなるところなので、「他と違う」快適な座席にすることには大きな意味があった。

「他と違う」を実現するために、あえてコストのかかる黒の革張りの座席を採用

次にモデルとした米国の新興航空会社であるジェットブルーにならい、堀社長のこだわりであった機内テレビとインターネットの装着に取り組んだ。機内テレビの問題は億円単位のコストをキャッシュで払うことができないため、リース会社GECASと8年間のリース料に組み込む交渉が大変だった。新たな与信が必要になるからだ。

これは、財務制限条項における最終的な資本金のハードルを上げる(とはいっても達成可能な水準で収めたが)ことで決着。しかし、どうしてもできなかったのがインターネットのためのアンテナ装着だった。機体前頭上部に穴をあける作業は、リース機で行うと返却時の原状復帰ができないとの理由で諦めざるを得なかった。

国際線を視野に入れたある仕掛け

また、最初の4機には「ユーロビジネス」と言われる仕掛けが施されていた。3席の中央シートの背もたれを開けるとテーブルが出現し、2席仕様になるものだ。座席コストがさほど増加するわけでもなく、将来国際線に進出した時にビジネスクラスが必要になる時が来るはず、と踏んでの採用だったが、結局日の目を見なかった。

客室運送サイドでも「他にないサービス」を合言葉に検討が進められた。おいしいコーヒーをアピールするためタリーズと提携することができ、添えて出すチョコレートも「ひと味違うサービス」を感じさせるためのアイデアとして採用された。

タリーズのコーヒーにはチョコレートがよく似合う

そしていよいよ就航日へ

他方、営業準備は遅れがちで、特に首都圏での代理店・法人向けの営業活動がなかなか進まなかった。ひとえに「あまりに知られていなかった」ことに尽きる。そんな中で我々に勇気を与えてくれたのが雑誌「GQ」による特集だった。

発行元コンデナストジャパンがスターフライヤーのブランディングにいたく興味と共感を持ってくださり、松井氏をフューチャーしながら「航空会社のつくり方」として5カ月にわたって新しいエアラインの全貌を紹介していただいた。

このGQの特集連載はいろいろな業界のブランド担当者や著名人の眼に止まり、就航後に多くのブランドとコラボレーションを組むことができたきっかけとなったし、その後も数々の企画を紹介・実施いただいた。本当に我々にとってはありがたく貴重なことだったが、実はエアラインからは掲載料などは支払っていない。GQ側から面白いと感じていただいて一緒に企画を練り実行したという、稀有なプロジェクトだった。

2005年12月にいよいよ初号機が日本に到着。1月に事業許可がおりて、運航ダイヤ、運賃を申請した。就航直後の3月は何が起こるか分からないので、当初計画のフル運航12便でなく9便に減便して運航間隔を十分に確保し、遅延・欠航を防ぐことにした。

こうして2006年3月16日の朝が明けた。

※本文に登場する人物の立場・肩書等は全て当時のもの

筆者プロフィール: 武藤康史

航空ビジネスアドバイザー。大手エアラインから独立してスターフライヤーを創業。30年以上におよぶ航空会社経験をもとに、業界の異端児とも呼ばれる独自の経営感覚で国内外のアビエーション関係のビジネス創造を手がける。「航空業界をより経営目線で知り、理解してもらう」ことを目指し、航空ビジネスのコメンテーターとしても活躍している。