堀高明代表取締役社長とともにスターフライヤーを立ち上げたひとりとして、スターフライヤー創業の歴史をここに記していこうと思う。前回、大手と戦うためのブランディングとして「デザインエアライン」に舵を切ったことに触れた。その後に続く2005年後半は、エアラインとしての基本的な資格である航空運送事業許可を取得するために、運航・整備部隊が苦闘した時期だった。

航空運送事業許可取得には国土交通省航空局からの制約があった

整備と運航の一元管理を計画

新興航空会社に対する国土交通省航空局の審査は基本的に「性悪説」から入る。このような運航をするので大丈夫だ、と何度説明しても「本当にできるという材料を示せ」「何かあった時に対応できるのか」など、「できないだろう」という前提で話が始まることが多かった。この当局の疑念・懸念を払拭するだけの資料(マニュアル類がほとんど)や人物(例えば大手での確かな実績と局交渉経験がある人)が確保されていないと、なかなか申請準備書面を受け取ってもらえないのだ。

そして、その中身も新興会社への不安や不信から、大手以上に慎重に安全に配慮していることを盛り込むよう要求されたりする。そのためマニュアルが保守化し、オペレーションの柔軟性が失われ、機材・乗員を効率的に稼働させることができなくなる。結果、コスト構造が悪化していくのだ。

例えば、我々は整備と運航を一元的に管理運用する方が効率的と考えて、通常の会社では整備本部・運航本部と分けているものを技術本部としてひとつに括る組織としていた。また、整備の技術部門は欧州の航空会社の例にならい、「MRO」(整備受託会社: Maintenance, Repair & Overhaul)に全面的に任せる計画だった。

そのため、コストは高いが技術力に定評のあるルフトハンザ・テクニーク社と契約した。ポーランドの中堅エアラインが同社に技術管理や品質保証などを全面委託し、自社の技術スタッフは10人以下でやっているという事例を日本で実践しようと考えたのと、有名なMROでないと当局の信用を得られず時間がかかると踏んだからだ。

「日本に前例がない」で棄却

が、結果は悲惨なものとなった。「運航と整備を同じ本部で管理できるわけがない」「責任体制をきちんと分けておかないと不測の事故対応時に混乱が増幅する」など、当局から多くの疑念・指導が出され、結局翌2006年初頭に事業許可を受けるまでには別々の本部に再編成させられた。航空局は航空機安全課と運航課に分かれた運営であり、これを「一緒にした方が効率的」というスターフライヤーの組織論は、感情的にも受け入れられにくい論理だっただろう。

また、MROへの技術委託については、「外部に委託するには、それを自社側でしっかり管理できる人間がいないと業務が正しく行われたか査定できない」との理由で認められず、技術管理の人間を急遽、大人数集めねばならなくなった。「自社で事細かに管理するコストが大きいし、新興会社だからこそ世界的に信頼されるMROに任せる」という、欧米で行われている方式は、「日本に前例がない」という理由で認められなかったのだ。

外国人副操縦士・整備士を採用できない理由

審査・訓練を担当する日本人乗員以外は、スターフライヤーのパイロットの主力は外国人だった。税務問題などが複雑なので外人乗員の派遣会社を通じて採用するのだが、仲介会社を通すことでコストが上がることに加えもうひとつ問題があった。外国人パイロットへの就労ビザだ。

法務省は機長資格のあるものにはビザを発行するが、副操縦士へは出さなかった。このため、外国人乗員は全て機長を採らざるを得なくなり、運航人件費が大手並みに上がってしまった。

また、A320のFAA(米国連邦航空局)整備士免許を持っている外国人が社員の知人にいて、すぐに採用できないか当局に相談したところ、「日本の一等航空整備士の試験に通れば免許を出す」との返事。この何が問題かというと、日本での整備士試験の問題は日本語でしか作られないのだ。

会社が英文の整備マニュアルを用意し、当局が英語で試験をしてくれれば済む話なのだが結果はノー。機長であればFAAの同機種のライセンスがあればシミュレータチェックで日本のライセンスがもらえるのに、である。結局、彼は採用できなかった。

人員規模は100人以上も膨張

このように、新興会社には数多くの当局の制約が存在した。これが法や規則であれば進歩的な幹部に働きかけて是正していく道も描けるのだが、担当官の裁量・指導という形で制限が行われるので事態が難しくなる。

この他にも様々な工夫を凝らそうとしたが認められず、羽田に多くのスタッフを置かざるを得なくなり、マニュアルもますます硬直化していった。その結果、当初計画で250人と計画した就航時の人員規模は100人以上も膨張するなど、当局による制約によって想定外のコストを抱えることとなった。

ユニークな試みも当局リスクで幻に

このような航空局のオペレーション実務の現場での緊張は、思わぬ余波も作った。実は、機内で必ず見る機内安全ビデオ(いわゆるセイフティ・デモ)には幻のバージョンが存在した。

基本は当初機内に搭載した映像の流れのままなのだが、非常用装備品の使用要領や非常口の案内に登場するキャビンアテンダントに、機体デザインなどを担当してくださったフラワーロボティクス代表の松井龍哉氏の知己であったシンガー、ピチカート・ファイヴの野宮真貴さんを起用するという試みが提案され、撮影が進められた。

彼女がライフベストの装着を案内するビデオは、話題性から普段はあまり真剣に見てもらえないデモ映像を乗客が見るようにし向ける画期的な試みと思っていた。しかし、社内で「芸能系の安全デモを作ると、航空局の窓口の人に与える印象、ひいては事業面許認可のスピードに及ぼすリスクがある」との声が出た。

当時は「2006年3月16日」という新北九州空港の開港日があり、それに向けて事業許可の取得が間に合わなければ新興会社の経営に致命的な打撃が出るという状況だった。当局への影響に対する配慮として、このビデオは残念ながらお蔵入りとなった。なお、後に就航後北九州空港の空の日イベントで公開されたことはある。

こうして就航への秒読みが始まり、2005年末には記念すべき初号機の受領へと進むのだが、就航準備にはまだまだ足りないことが山積していた。

※本文に登場する人物の立場・肩書等は全て当時のもの

筆者プロフィール: 武藤康史

航空ビジネスアドバイザー。大手エアラインから独立してスターフライヤーを創業。30年以上におよぶ航空会社経験をもとに、業界の異端児とも呼ばれる独自の経営感覚で国内外のアビエーション関係のビジネス創造を手がける。「航空業界をより経営目線で知り、理解してもらう」ことを目指し、航空ビジネスのコメンテーターとしても活躍している。