かつて関東の大手私鉄・東武鉄道に、沿線の住民から"妻沼(めぬま)線"と呼ばれ親しまれた熊谷線という路線があったのをご存じだろうか。東武熊谷線(以下、妻沼線)は、高崎線、秩父鉄道が乗り入れる熊谷駅から利根川の南に位置する旧妻沼町(現・熊谷市妻沼)までの、およそ10.1kmを結んでいたが、赤字などを理由に昭和58(1983)年に廃止になった。今回は、今はなき妻沼線の廃線跡を旅してみよう。

妻沼線のキハ2000形は、東武鉄道初の自社発注ディーゼルカーだった。東急車輌製で、当時の最新鋭の性能を持ち合わせていた(写真提供: 熊谷市)

妻沼線が歩んだ歴史

妻沼線は元々、太平洋戦争中に、利根川を挟んで北側の群馬県太田市や小泉地区(現・大泉町)にあった中島飛行機工場の工員と資材輸送の必要から敷設された「軍需路線」だった。工事は二期に分けて行われる予定が組まれ、第一期工事は、熊谷と妻沼を結ぶもので、昭和18(1943)年11月に工事が完了し、同年12月5日から営業が開始された。これにより、高崎線沿線などに住む工員は列車で熊谷から妻沼まで運ばれ、妻沼でバスに乗り換えて利根川を渡り、工場に通勤したという。

続く第二期工事は、妻沼から橋梁敷設により利根川を越え、貨物専用線であった仙石河岸線(昭和51・1976年廃止)を経由して、群馬県南部の太田・館林・西小泉を結ぶ東武小泉線に接続する予定だった。しかし、日本最大の河川である利根川を越えるのは、戦時中の資材不足もあり難工事で、工事中に太平洋戦争終結を迎えた。橋脚(ピア-)が完成するまでは工事続行という方針がとられ、橋脚が完成した昭和22(1947)年7月に工事中止となった。

橋脚が完成した時点で工事はストップ。妻沼線はついに、利根川を越えることはなかった(利根川北岸「いずみ総合公園」内の案内板)

戦後、妻沼線の群馬県側への貫通の機運が高まったこともあったが、マイカーの普及などで利用者は減少し続ける。「昭和50年以降は年間赤字が2億円を超え、54年度決算では収入は4100万円、赤字は2億4千万円にのぼった」(朝日新聞昭和55(1980)年11月21日)という。

営業係数が500を超える不採算路線であることに加え、上越新幹線開通に伴う熊谷駅南口開設のための用地問題等もあり、昭和58(1983)年5月31日に廃止された。なお、廃線間際の昭和58年当時、列車の運行は1時間に1本程度、熊谷~妻沼間の運賃は130円だった。

廃線直前の昭和58(1983)年5月21日から31日まで「さよなら熊谷線」のヘッドマークを掲げた(写真提供: 熊谷市)

かつてのレールがそのままに

それでは、実際に妻沼線の廃線跡をたどってみることにしよう。妻沼線には、熊谷・上熊谷・大幡(おおはた)・妻沼という4つの駅が存在したが、熊谷と上熊谷の両駅は、秩父鉄道のホームを借用していた。というのは、上記のような軍需目的により、急ピッチで敷設しなければならず、熊谷~上熊谷間は"仮線"ということで秩父鉄道の複線化用地を借用して営業開始し、戦後も独自の線路敷設の投資ができずに、そのままになってしまったのだ。

秩父鉄道熊谷駅改札。ICカード未対応で、昔懐かしい改札スタイルのままだ

熊谷から上熊谷までは、秩父鉄道の車窓から妻沼線の線路跡を眺めることにしよう。かつて妻沼線が発着していたのは、秩父鉄道の羽生方面行き列車が発着する現在の5番線だが、上熊谷に向かうには反対側の6番線から秩父方面行きに乗車する。

列車が出発し、最初の踏切のすぐ手前のポイントで、秩父鉄道のレールから、かつての妻沼線のレールが分岐する。かなり草むしており、踏切の部分はアスファルトで塞がれているとはいえ、廃線から30年以上が経過した今もレールが残されているのは感慨深い。熊谷駅出発からおよそ1分半で、列車は上熊谷駅のホームに滑り込む。

上熊谷駅は、南側の上越新幹線の高架と北側の高崎線の線路に挟まれ、さらにホーム上を国道407号の跨線橋(こせんきょう)が通過しており、なんとも肩身が狭そうに存在する小さな駅だ。駅の構造は、駅舎から構内踏切を渡った先に島式ホームがあり、南側が秩父鉄道、北側が妻沼線用として使われていた。現在は、妻沼線側はフェンスで塞がれ使われていない。

国道407号の跨線橋上より。高崎線の列車が通過するすぐ左の草の生えた線路が妻沼線跡だ

土盛りの上を走る妻沼線

駅改札を出て国道407号線の跨線橋に上がれば、並走する各線の線路の様子を一望することができる。奥の上越新幹線の高架のすぐ下に見えるのが秩父鉄道(単線)で、中央付近の草むしたレールがかつての妻沼線(単線)。手前を走るのは高崎線(複線)で、この先で籠原方面に向かって右方向に大きくカーブしていく。

橋から下りたら、しばらく新幹線の高架に沿って歩いて行き、2つ目の踏切を渡ろう。かつての妻沼線は、この踏切付近で秩父鉄道から離れ、大きく北に向かってカーブして、妻沼を目指していた。

妻沼線の線路は踏切付近で途切れており、この先しばらくは、廃線跡は「かめの道」という遊歩道として整備されている。この「かめの道」という名前は、妻沼線の愛称に由来する。

28号蒸気機関車とディーゼルカー。新旧「カメ号」のそろい踏み(写真提供: 熊谷市)

開業から昭和29(1954)年にディーゼルカーが導入されるまでの間は、鉄道院(国鉄)から譲り受けた英国製の蒸気機関車が客車を牽引していたが、10.1kmを24分もかけて走るため、地元の人たちからは「ノロマ線のカメ号」と呼ばれていた。それが、昭和29年に「キハ2000形」ディーゼルカーが導入されると、一気に17分に短縮されたことや見た目から、今度は「特急カメ号」と呼ばれるようになったという。

石原公園内のキハ2000形を模した倉庫

遊歩道は石原公園という公園内を抜けていく。園内には、踏切の警報器を模したオブジェや防災用品の倉庫として使われている「カメ号」の形をしたコンクリート製の建物があるほか、公園と道路の境界に残る鉄道時代の境界柵が、わずかに鉄道の廃線跡だった記憶を今に伝えている。

そして、県道を越えた先に最初の大きな見所が存在する。遊歩道の行く手に小高い土盛りがあり、上ってみるとその先を高崎線が通過し、対岸にも土盛りが見える。ここは、かつて妻沼線が高崎線をオーバークロスしていた場所なのだ。

高崎線をクロスする土手の上を走る。勾配はきつく、蒸気機関車時代は馬力が足りず、ノロノロになってしまったという(写真提供: 熊谷市)

当時の写真を見ると、この土盛りは河川の堤防のように見え、延長1.5km、高さ最高4.2m、幅平均13mもあったという。廃線後、土盛りは熊谷市街を文字通り"分断"していたため撤去され、使われていた土砂は昭和63(1988)年に開催された「さいたま博覧会」に備えての、国道17号線「熊谷バイパス」拡幅工事時に再利用されたという。

さて、近隣の踏切を渡って高崎線の向こう側に回り込んで歩を進めると、間もなく国道17号とクロスするが、妻沼線はこの道も立体交差で越えていた。さらに、遊歩道は熊谷農業高校の敷地の間を進み、牛舎の外でのんびりする牛たちの姿が目に入ってくる。

その少し先で「かめの道」は終点になり、ここからしばらく、廃線跡はきれいに舗装された一般道路になっている。周囲の住宅を見ると比較的新しい家が多く、今の時代に妻沼線が残っていたなら、当時とは利用状況も随分違っていたのではないかと思う。ちなみに、廃線跡の道路はほとんどカーブがなく、どこまでも真っすぐに続いているが、これは妻沼線が軍需路線として敷設されたことから、集落や人口密度を考慮しなかったためだ。

大幡駅跡へ足を進めてみよう。