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2023年3月から、大手企業を中心に人的資本の情報開示が上場企業に義務化された(※)。開示内容は採用にも影響するため、多くの企業にとって優先度の高いトピックであるものの、人材戦略をどのように変えるべきか逡巡している経営層や人事は多いのではないだろうか。

人的資本経営の実現に向けた検討会の委員の一人でもあるエール株式会社取締役の篠田真貴子さんは「人的資本経営の実現には経営戦略と人材戦略の連携が不可欠」と話す。人的資本経営に基づく人材戦略見直しのポイントとは何か、詳しく伺った。

※有価証券報告書を発行している企業のうち約4,000社が対象

人的資本経営への取り組み状況が企業価値を左右する

――「人的資本経営」という言葉を耳にする機会が増えましたが、そもそも人的資本経営とは何なのでしょうか。

社員がしっかりと力を発揮できる環境を企業が作ること。そして、その取り組み状況を発信し企業価値を高めることが、人的資本経営の本質です。

特に上場企業は企業価値、つまり時価総額を長期的に上げていかなければなりませんが、時価総額は「会社の将来性」に直結しています。

では「会社の将来性」とは何によって作られるのでしょうか。それは高い技術力やマーケティング力かもしれませんが、結局それらを生み出すのは人であるはずです。

人が何かを生み出す、ということ自体はずっと変わりませんが、数十年前は働く人は潤沢にいて、かつコストとみなされていました。さらに、現在より金融市場の規制が厳しく金利も高かったこともあり、資本力のある企業が市場から評価されていました。自動車業界を例にとると、大規模な生産設備が作れるかどうか。お金が出回らない分、この資本力が企業価値を左右していたんですよね。

ところが、現在は規制緩和が進み圧倒的に低金利。お金が普通に出回るようになると、お金よりも人の知恵の方が相対的に希少になってきます。労働人口の減少も伴うこうした時代では、優秀な人がいる組織の方が将来性が高いと見られるのです。

とはいえ、優れた人を寄せ集めるだけでは環境として十分とは言えません。企業は、優秀な人たちがしっかりと力を発揮できる仕組みを作る必要があります。

人的資本経営の指標は、特に海外の投資家が重視しています。グローバル企業をはじめ海外の資本を受け入れている多くの企業にとっても、人的資本経営はもはや無視できないテーマとなっています。

――投資判断をするときにも人的資本という点が注目されるようになっていったんですね。人的資本の情報開示が義務付けされていない場合においても、企業価値の向上に人的資本経営は欠かせない要素だと感じます。人的資本経営を推進するにあたって、まずどのような視点を持って取り組むといいのでしょうか?

経済産業省が公開している「人的資本経営の実現に向けた検討会報告書~ 人材版伊藤レポート2.0~ 」では、変革のポイントが6つ記載されています。

上の3つは「人材・組織を経営課題として取り扱うようにしよう」というもの、下の3つは、組織の体質を変える「具体的な施策の取り組みの方向性」に関するものです。

例えば企業における人材マネジメントの「イニシアティブ」は、今までは人事部門が取っていましたが、人的資本経営の観点からは人事諸制度の運用・改善だけではなく経営戦略と紐づける必要があるため、「人材戦略」として経営陣が取るべきだとされています。

また施策の取り組み方においては「雇用コミュニティ」の変化も重要です。新卒一括採用や終身雇用が中心の時代では、若者を早期に囲い込んでそのまま長く働かせる「囲い込み型」が一般的でした。言葉を選ばずに言えば、社会のことを何も知らない状態の若い人たちを、自分たちの会社にフィットするように染め上げていく。

しかし今は一個の会社の中で一つのキャリアを築くのではなく、専門性を土台としたオープンなコミュニティの中で、企業との「選び、選ばれる関係」を求める人が増えつつあります。企業はこうした変化に対応した人材戦略を作る必要があります。

――仰る通り「一つの会社で定年まで働くのは当たり前」という価値観は、若手世代ほど共感されにくくなっているように思います。そのため、自分のスキルや経験が社外でも通じるのか、といった不安感を漠然と抱いている人は少なくない。そんな今の時代において、人的資本経営に向き合わず、従来通り人を画一的に管理するような経営を継続した場合、どのような弊害が起こりうるでしょうか。

弊害は大きく3つ考えられます。

一つ目は、ビジネスモデルの革新が起きにくくなることです。従来のやり方を継続してさえいれば、安定的に利益が得られる時代は終わりました。

ビジネスモデルや事業領域を大きく変えなければ会社の存続すら難しいという時代においては、会社は一人ひとりの能力やマインドセットに変化をもたらし、新しいやり方で力を発揮できるような環境づくりに取り組まなくてはなりません。

二つ目は、知的生産を主とするビジネスへのシフトが難しくなる点です。今後は図のような知的生産のビジネスがますますメインになってきています。ですが、これまでの労働集約型のビジネスとは異なり、働く人や時間を倍にすれば利益も倍になるわけではありません。企業は少ない人数でも高いアウトプットを出せるような仕組みづくりに取り組む必要があります。

  • 社会がこれからの事業に期待する組織イメージを図にしたもの。多様な人材の思考や価値観、考えの差異は重要とされてこなかった「機械的な組織」から「人間らしい組織」が期待されている。(画像提供:エール株式会社)

そして三つ目は採用です。中にはビジネスモデルを変えなくても一定の利益を稼ぎ続けられる会社があるかもしれませんが、その場合でも、人的資本経営の観点から人材戦略、その中でも採用活動にまつわる方針(採用戦略)の見直しを行わなければ、新しい価値観を持つ若手に選ばれるのは厳しいと言わざるを得ないでしょう。

最近の若手は、自分の専門性が発揮できることやチームの柔軟性など、自分が伸び伸びと活躍できる環境を重視しています。

近年、歴史ある大企業が思い切った人事制度を取り入れる例が増えていますが、それは若手の価値観に合わせた環境を作ることで、採用力を高める必要があったからだと思います。

「個人・制度・カルチャー」が三位一体となった人材戦略を

――では企業の経営層や人事部門は、人的資本経営を推進する際、まず何から取り組むべきでしょうか。

何をおいてもまず相手の話を聞くこと。「対話」から始めないと、何が本当の問題かが分からないと思うんです。例えば経営レイヤーと現場レイヤーでは見えている景色が違いますから、自分に見えている景色だけで進めると施策が偏ってしまいます。まずは社内のさまざまな立ち位置の人から話を聞くことで、解くべき課題が、多面的に明らかになります。

そして実際に制度を作る際には「個人のスキル」「制度や組織の組み方」「カルチャー」の三つに一貫性があることが大切です。ここがちぐはぐだと本質的な改革につなげることはできません。

例えば人的資本経営において、環境変化によって新しく発生する業務・仕事に必要なスキルを学ぶ「リスキリング(職業能力の再開発、再教育)」施策は重要ですし、キーワードとして注目されているようにも感じます。

ただ、リスキリングが流行しているからといって、eラーニングの制度だけを取り入れたとしても、その目的が社内にきちんと伝わっていなかったり、研修メニューから好きなものを任意で選ぶ形式になっていたり、利用したことが評価される制度がなかったりすると、意図した通りに活用されない恐れがあります。

いわば、従業員のやる気頼みになっているような場合は注意が必要です。実施責任はあくまで企業にある、というのが前提です。

―― 「なぜリスキリングが必要なのか」という前提をまず従業員に周知し、その上で従業員の自主性に任せるのではなく、戦略の一環として仕組み化し推進していくのも重要、ということですね。

そうです。企業によって身に付けてほしいスキルは変わりますし、さらに人によっても違うはずですから。もっと言えば、リスキリングをなぜしてもらいたいかというと、企業としては未来の事業を作っていきたいからじゃないですか。

学んだことを踏まえ「新しい提案をしてほしい」という期待値があるのであれば、それに伴う評価制度の検討や、スキルを高めた上で何をやりたいかをディスカッションできるような風土作りが必要になる、というのが自然と一つの輪のようにつながっているといいですね。

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――人的資本経営に効果的な人材戦略を実行している企業の事例はありますか。

ある大手IT企業の事例をご紹介します。この企業は非常に優れたIT技術を持っているにもかかわらず、社員は自分たちの技術をあまり高く評価していませんでした。

「このままではお客様に自信を持った提案ができない」と考えた経営陣は、まずeラーニングを取り入れることで「個人のスキル」を高め、次にジョブ制の導入や昇進時の挙手制を導入することで「制度や組織の組み方」を変え、そして心理的安全性のある「カルチャー」の形成にも取り組みました。

その結果、昇進の機会には1万人以上が手を挙げてチャレンジしたそうです。昇進自体は半分以上が落ちてしまったのですが、その後、落ちた社員のeラーニングの活用時間が大幅に増え、社員の姿勢に明らかな変化が見られました。施策が機能した背景には「落ちたからといって落ち込む必要はない」という前向きなカルチャーが醸成できていたことが大きいです。

このように「個人のスキル」「制度や組織の組み方」「カルチャー」の三つが相互に作用し合うと、高い成果を生み出す人材戦略になりやすいと言えます。

――新たな人材戦略を導入する際、現場に近い若手やミドル層にはどのような発信を行うと効果的でしょうか。

優れた企業では、施策の内容と同じかそれ以上に、その背景や意図を丁寧に説明しています。また「これが100%正解とは思っていないが、この施策から人材戦略の改革を進めていきたい」といった正直な気持ちをトップ自らが伝えることも効果的です。

ただ、どんなに経営や人事が一生懸命メッセージを発信しても、受け取る側に聞く耳がなければ意味がありません。日本は上下の規範が強い分、現場メンバーは上部レイヤーに過剰な期待をしてしまいがちで、「上は常に完璧でなければ許せない」と思っている人が多いのです。

しかし今後フラットな関係性の組織に変わっていくのであれば、現場メンバーは上部レイヤーの「不完全さ」もある程度受け入れつつ、新しい取り組みに協力していく必要があります。

そして、ここでも「対話」です。会社の取り組みに対するポジティブな姿勢を持ってもらうためには、普段から双方向的な対話を継続する上部レイヤーの姿勢が欠かせませんね。

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若手のキャリア観に合わせて、自社の見せ方を変える

――先ほども少しお話いただきましたが、人的資本経営を見据えた採用戦略のポイントについて改めて伺いたいです。

若手のキャリア観に寄り添う形で、自社のメリットをいかに見せるかがポイントです。

例えばあるメガバンクは新卒採用のイベントで、新卒入社後に退職し今は別の会社で活躍している元社員や、退職後に戻ってきた社員(アルムナイ)などを呼んでパネルディスカッションを行っていました。

最近の若手は、一つの会社で一生のキャリアを築くことはあまり考えていませんから、そのような新しい価値観に合わせて「キャリアのどこかで我々の会社を経験すると良い」というメッセージを打ち出したのです。これは非常に効果的な採用戦略の一つだと言えます。

ちなみに、今は勤続年数に重きを置いている人はかなり少なくなっています。代わりにキーワードとなっているのは「心理的安全性」です。自分の気持ちを発信できる組織かどうか、というのを重視している傾向はありますね。

また、若いうちから希望する仕事ができるかどうか、チャンスが与えられる職場かどうかを重視する若手が増えている印象があります。

――採用後の定着や育成に関しては、何に気をつけるべきでしょうか。

転職が当たり前になった今、人事は必ずしも長く働いてもらうことにこだわる必要はありません。これからの時代に大切なのは、退職した後も会社に対してポジティブな感情を持ってもらい、タイミングが合ったときにいつでも戻ってきてもらえるような関係性を築くことです。

そのために企業が取るべきアプローチは、社員の「今この時点」でのキャリア観と、会社の方向性が一致することの確認です。あまり5年後、10年後といった先の未来を考えさせるのではなく、とりあえず向こう3年間どんな経験を重ねたいのかを聞いて、お互いの考えを擦り合わせましょう。

加えて、社外とのオープンな関係性を認めることも大切です。かつては「毎日同じチームの人と昼食を取るべし」という組織も多くありましたが、今はそのような組織は閉鎖的だとみなされ、若手に敬遠されてしまうかもしれません。企業は社員が別チーム、さらに社外の人とも積極的に関係性を作ることを推奨する態度を持つべきです。

最近ある企業は、グループ内の4社で連合を組み、異業種間での副業を認める制度を作りました。これはオープンなカルチャーの形成に寄与する上に、社員に新しい挑戦をしやすくするという点で、優れた取り組みの一つですね。

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人事はマーケットに向き合い、経営視点を持つべき

――人的資本経営を進めたい経営陣が人事部門を動かしたいとき、どのようなアプローチを取るべきですか。

今多くの人事部門は「人的資本経営に関して何かしなくてはいけないのは分かっているが、どうしたらいいか分からない」といった状況にあると思います。

この状況を25年ほど前の財務部門に起きた変化と同じものだと捉えると、現状を理解しやすくなるのではないでしょうか。

日本では金融自由化が進むまで、直接金融のマーケット(市場)は十分に発達していませんでした。そのため90年代までの企業の財務部門の仕事は、大まかに言えば「銀行でお金を借りること」だったので、財務部長には銀行から融資を引き出す技術が必要だったわけです。

しかし、1996年から2001年にかけて行われた大規模な金融制度改革により金融市場が発達し、お金をマーケットから調達できるようになると「CFO(最高財務責任者)」という役割が生まれ、今までとは全く異なる技術が求められるようになりました。

私は「C」がつく役職とそれ以外との違いは、会社のステークホルダー全員を相手にするかどうかだと思っています。

つまりかつての財務部長は、銀行や部署内のメンバーとだけ関わっていれば済んだものの、CFOは資本市場というマーケットを中心に多様なプレーヤーと相対しなければならなくなったのです。

今人事部門で起きているのは、これと同じ変化です。これからの人事部門のトップは、自部門のメンバーだけではなく、経営層との連携、マーケット(労働市場)への働きかけもしなくてはなりません。

――では経営層は、人事部門をマーケットに向き合わせるために何をするべきでしょうか。

ある企業はマーケットに向き合う感覚を持つ人材を事業部門から引き抜き、人事部門のトップに置いて人事制度を中心にした人材に関わる各制度を作り直しているそうです。

人事の仕事は未経験だけれど、特定の製品・サービスのマーケットにおいてどう勝っていくか? という戦略を練ってきた人物であれば、全体の骨子は作れるはず。

その戦略をもとに、これまで人事畑にいた人たちが仕組みの詳細を詰めていく、というふうにして補完し合いながら改革を進めているようです。こうした抜本的なアプローチは試してみる価値があると思います。「CHRO(最高人事責任者)」を登用する企業も増えてきていますね。

――経営層や人事にとってヒントとなる、人的資本経営を企業価値向上につなげるためのポイントを多角的にお話いただきました。

人的資本経営の推進においては、経営戦略と人材戦略の連携が不可欠です。

ほとんどの人にとって今までに経験したことのない業務になると思いますが、経営と人事が一緒になって進めていくことによって、人的資本経営を採用の成功だけではなく企業価値の長期的な向上にもつなげていくことができます。ぜひ前向きに取り組んでいただきたいと思います。

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取材・執筆:一本麻衣
撮影:関口佳代
編集協力:はてな編集部

篠田真貴子
エール株式会社 取締役

慶應義塾大学経済学部卒、米ペンシルバニア大ウォートン校MBA、ジョンズ・ホプキンス大国際関係論修士。日本長期信用銀行、マッキンゼー、ノバルティス、 ネスレを経て、2008年からほぼ日(旧・東京糸井重里事務所)取締役CFO。2020年3月より現職。社外人材によるオンライン1on1を通じて、組織改革を進める企業を支援している。経済産業省 人的資本経営の実現に向けた検討会 委員。「LISTEN――知性豊かで創造力がある人になれる」「ALLIANCE アライアンス――人と企業が信頼で結ばれる新しい雇用」監訳。『まず、ちゃんと聴く──コミュニケーションの質が変わる「聴く」と「伝える」の黄金比』巻頭言。

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