落城を伝える蹄(ひづめ)の音だけが砦を駆け上がっていく。戦いは終わった。明かりが次々と消されていく。廃墟と化した砦を照らすのは頭上の月だけである。筆者はこの月明かりを見たくて、この地を3回も通った。ありえないことだが、滝廉太郎もこの舞台を見て「荒城の月」を作ったのでは……と思わず錯覚してしまう。ハイデラバード郊外、ゴルコンダ要塞はそんな光と音の舞台となっている。
湖畔の美しい街・ハイデラバード
筆者が初めてハイデラバードを訪れたのは1995年の秋である。しかし、この時の記憶はほとんどない。街の中心に湖があり、周囲には5スターホテルが立ち並んでいた、その程度の記憶である。そのに前にデリーで4泊したのだが、実はここで体調を崩してしまい、早朝4時起きで空港に行き、ハイデラバードに向かったことも災いした。睡眠不足+油まみれの食事+怪しいジュースの3点セットで、筆者は機内ですでに気分が悪くなっていた。
ハイデラバードに到着すると、州政府の好意で湖畔のホテルに案内された。部屋で1時間の休憩ということだったが、1時間の休憩で体調が回復するような状態ではない。部屋に入った途端に激痛と吐き下しである。だから企業訪問もできずにベッドの上で七転八倒していた。ホテルドクターも来てくれたが、当時はインドの医療技術のことなど何もわかっていない。
今から考えれば薬1錠を飲めば済む問題だったのだが、ドクターにはお引取りを願った。夕方までその状態が続き、そのままバンガロールに向かった。だから記憶といってもベッドとトイレくらいである。窓の外の湖を見ることもできなかった。
2回目の訪問は1997年の2月だったと記憶している。空港に着くと「Welcome to the IBM city.」の大看板である。たしかに美しい街だ。こんなことを書くと怒られるかもしれないが、インドには似合わないほどの美しさだ。筆者はそのままサティヤム・コンピュータ・サービス社(現: マヒンドラ・サティヤム社。以下、サティヤム)の開発センターを訪問した。
サティヤムの開発センターには当時、160エーカーの敷地内に開発センターと研修施設が点在していた。まだ同社の社員数が3,000人もいなかった時代である。ここは「IBM city」でもあるのだが、サティヤムの城下町でもある。それから4年間、よく通ったものだ。
湖の名前はフセイン湖。やはりムスリムの街だ。なぜか湖の中に仏陀の像が立っている。当時は徹底した禁酒州であったため、5スターホテルでもビールを飲むのに許可証の購入が必要で、さらに鉄格子つきの小部屋に案内されるといった状況だった。それは別にしても、筆者が住みたいと思った街でもある。サティヤムの粉飾事件さえなければ、この夢は実現したかもしれない……。
独立と支配の繰り返しのハイデラバード
筆者が見たハイデラバードは"表の顔"だ。
ウィキペディアでハイデラバードの歴史を紐解いてみた。そこには現在まで続く血塗られた歴史がある。
この地に砦が最初に築かれたのは12世紀のことである。その後、幾多の王朝の変遷の後、16世紀にゴルコンダ要塞都市クトゥブ・シャーヒー王国として独立した。
この王国統治期には、数え切れない宮殿や邸宅、壮麗なモスク、湖や溜池が造営された。5代目のムハンマド・クリー・クトゥブ・シャー王の時代に絶頂期を迎え、豊かな緑に覆われた現在のハイデラバード旧市街に都を移した。
ちなみに「ハイデラバード」という名前には、王が愛した踊り子「ハイダルの街」という意味があるとされている。しかし繁栄は長く続かなかった。
ムガル帝国による3度の大攻撃にあい、1687年、最後は難攻不落のゴルコンダ要塞に篭城して戦ったが、裏切りにより落城した。インドではこの時の叙事詩が、冒頭で紹介したような光と音の舞台として演じられている。
しかし、ムガル帝国の支配も長くは続かなかった。18世紀初めにムガル帝国からニザーム藩王国(ハイデラバード藩王国)として独立。この時期に電力や鉄道、航空路の整備、巨大な貯水池建設を含むいくつもの灌漑プロジェクトが実施され、現在も残る数々の名建築が残された。
ムガル帝国の支配を破ったハイデラバード藩王国であるが、栄華も長くは続かなかった。今度は英仏の侵略で疲弊、次第に英国の属国に陥っていった。
1947年、インドとパキスタンが分離独立、多くの藩王国がインドに併合されていったが、ムスリムの多いハイデラバード藩王国は拒否し独立を指向した。だがデカン高原中央部に広大なイスラム国家とかパキスタンの飛び地が生まれるのをインド政府が許すはずがない。
翌1948年、経済封鎖後に軍を派遣、マドラス州の一部としてハイデラバードを併合した。さらに1953年、テルグ語圏として現在のアンドラ・プラデッシュ州に併合された。
ゴルコンダの末裔たちの抵抗が続く
独立と侵略を繰り返してきたハイデラバードであるが、インドに併合されたあとも弾圧と抵抗が続く。それが現在の「テランガナ州昇格運動」に続いているのだ。
この地域は州人口7600万人のうちテランガナ地域の人口が3100万人を占め、州都ハイデラバードを除くと、開発から取り残された貧困地域が多い。テランガナ地域からすると、ハイデラバードの富を他の地域に奪われている形になる。さらに、独立を軍靴で潰された歴史がある。だから単に州を分割して利益配分をどうするのかという問題にはならない。
これはアッサムと同じ状況だ。その違いはデカン高原の中心であり、IT都市として繁栄するハイデラバードの帰趨を巡る問題であるということ。1969年には、分離派と治安部隊が衝突し、約360人の死者を出した。その後も抵抗運動は脈々と続く。
だが2年前の12月、ついにインド政府もテランガナ地域の州昇格を認めざるを得なくなった。カリスマ政治家: レディ首相の事故死によって、抑えがきかなくなったのだろう。
しかし、そうなると今度はアンドラ・プラデッシュ州の他の地域が黙っていない。ハイデラバードの富を取り上げられるのだから当然だ。
即座に暴動が発生し、反対派の州議会議員が辞任。ハンガーストライキが続くなど、大混乱に陥った。あまりの反発の強さにインド政府も州昇格を凍結せざるを得なくなり、この状態が現在まで続いている。
それからは両派による抗議行動の繰り返しである。収拾がつかなくなってきた。
活発化しはじめたテランガナ独立運動
今年5月、友人がインドに渡った。
日本で会社を辞め、ハイデラバードのMBAに通い始めた。最初はチェンナイに住んでいたのだが、学校に通う頻度が増えてハイデラバードに移った。久々にメールをいただいた。
「今週に入り、竹田さんがおっしゃっていたとおり、テランガナ独立運動が活発になってデモが起きています。国会議員の辞職、政府機関のストライキ、それに呼応して、商店などもシャッターを閉めています」
これがチェンナイの街ネタなら、すぐに「写真を送って」とお願いするところであるが、冗談でもそんなことは言えない。
インドのストライキ(バンド)というのは「暴動」と同義語である。外国人が写真を撮れるような状態ではないのだ。その様子は「THE HINDU」の記事で確認するしかない。
テランガナ独立運動の市民生活への影響を伝える「THE HINDU」(Business Line)の記事 |
こうなると州政府の出番はなくなる。中央政府、分離独立派、反対派、そして「赤い回廊」に拠点を持つ毛沢東派の四つ巴の争いである。東部8州の最貧困地帯とかカシミールは別にしても、アンドラ・プラデッシュ州にはしばらく外国企業は近づけそうにないだろう。
著者紹介
竹田孝治 (Koji Takeda)
エターナル・テクノロジーズ(ET)社社長。日本システムウエア(NSW)にてソフトウェア開発業務に従事。1996年にインドオフショア開発と日本で初となる自社社員に対するインド研修を立ち上げる。2004年、ET社設立。グローバル人材育成のためのインド研修をメイン事業とする。2006年、インドに子会社を設立。日本、インド、中国の技術者を結び付けることを目指す。独自コラム「(続)インド・中国IT見聞録」も掲載中。
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